界隈

 わずか1年前には、意気揚揚(?)と都会にすむ息子のところに引き取られていったのに、今日見た姿は豹変していた。送りだした娘も、まるで手柄のように都会の高層住宅に順応した母親のことを喧伝していたが、連れ立って入ってきた姿には、その面影はない。この1年の間に、又大都会の生活の中で何があったのか、僕にはわからない。  嘗ての職を生かして、近所の、お年寄りの世話をしていた彼女は、自分がすでに高齢なのだが、体格に恵まれ、声は大きく、笑い声は界隈の土壁を貫通するほどだった。存在自体が陽で、、陰気を吹き飛ばしながら自分の周りのお年寄りと共に暮らしていた。この町には、彼女が自由に闊歩出来る界隈があり、彼女を待ってくれる人達がいた。  息子夫婦と一緒に暮らす安心感は、誰のものだったのだろう。息子夫婦の求めなのか、母親の求めなのか。牛窓を立つ前に、豪快に笑い飛ばしていたのは、不安の裏返しか、息子や娘への気配りか。高層住宅の窓から何を眺めていたのだろう。何を思っていたのだろう。くだらないお喋りの中で心を通わせてきた人々と別れ、テレビと向かい合って暮らしてき、生気を失い、記憶を失い、判断力を失なったのか。  人は第2の人生を、働きつづけるべきなのか。趣味に没頭すべきなのか、奉仕の精神を十分に発揮すべきなのか、悠悠自適に暮らすべきか僕には分からない。ただ、自分自身と同じように他人を大切にして、生かされたらいいと思う。生きることもよいが、生かされるのはもっと尊い。  出遅れた季節が、途方にくれた老婆を峠の上で待っている。桜さえ散ることを躊躇っている。答えの見つからない旅人は海渡る潮風の香りをかぐ。