聖体拝領

 ミサの最後のほうで、キリストのからだとなったとされるパンを頂く聖体拝領と言う儀式がある。神父様の前に一人ひとりが順番に行き、パンをいただく。そして口に含んだまま席に戻り瞑想をする。僕などすぐに腰掛けるのだけれど、ほんの少々立ったままの人がいる。これがベトナム人となると、ほとんど全員がしばし立ったままで何か祈っている。国によって同じカトリックでも習慣が違うのだろうか。そういえばベトナム人は、式の間男性も女性も腕組みをしている。日本人だとえらそうな格好に見えるが、かの国ではそれが神様への礼儀みたいだ。
 今日もいつものように僕はすぐに腰かけ、ベトナム人たちはしばし立ったままだった。ところが牛窓から連れて行った中の一人が、いつまでも目を瞑り立ったままだった。何か祈らずにはおれないことがあるのだろうと思ったが、余りにも長く感じたので、何か辛いことがあるのだろうかと心配になった。そこで彼女のほうを向いたままになって、瞑想を終えて目を開けた瞬間、視線が合ってしまった。何か覗き見するような感じで不快感を与えたかと心配して、「大丈夫?」と声をかけた。彼女ははにかみながら「大丈夫」と答えたが、表情は少しばかり曇っていた。道中は後部座席で楽しそうに話していたが、キリストの前では演技をしなかったのだろう。来日してまだ2ヶ月だから、色々な思いが交錯しているのだろうか、体力は大丈夫かなどと心配にはなるが、皆立派な大人だからある腺からは入っていけない。向こうが打ち明けるまで待つのが正しい。と言うかほとんどの人は自力で解決する。時に自爆して失意のうちに帰国する人もいるが、多くは立派に勤めを果たす。
 おせっかいとクール。一見相反するものだが、このバランスを上手くとらなければ単なる迷惑になる。そしてベトナム人と日本人のバランスもクールに追求しなければならない。