生還

 処方箋を持って来た老人は、元大工さんだが今は遊び人だ。ところが急におとなしくなった感じがしたので、薬が出来上がるまで興味本位に話をしてみた。息子さんが運転する車で奥さんと一緒にやってきたのだが、奥さんは相変わらず元気だ。面倒を見ているのだろうが、どちらかと言うと従えているように見える。嘗てなら考えられないような逆転現象だ。僕の質問に奥さんのほうが痺れを切らして代わりに答える始末で、なかなか御主人とは会話が弾まない。でもこの辺りは結構僕は得意で、奥さんのほうを振り向かずにひたすら御主人の言葉を待つ。するとゆっくりとした口調で喋ってくれる。  珍しい薬を飲んでいるからその辺りから尋ねたのだが、脳梗塞で入院していたらしい。発作がでる数時間前、ノミやかなづちが手から滑り落ちたらしい。「こりゃあ普通じゃねえと、今度はわかった」と言うところをみると、あちらに行きかけて生還したのは今回が初めてではないらしい。「御主人、同じようなことがあったの?」と尋ねると、奥さんがこことぞばかりに喋り始めた。今度は当事者が覚えていないのだから、奥さんの独壇場だ。ご主人は合いの手どまりだ。「2年前に主人が海に落ちたの知られない?」と尋ねられても知らないものは知らない。同じ部落だから耳に入りそうだが、生還したからそんなに話題に上らなかったのだろう。「朝の6時ごろ、岸壁から船に乗ろうとして落ちたんですわ。本人は全く記憶がなかったそうです」「御主人、何も覚えていないの?」「気がついたら病院だったから、覚えとらん」「運がいいことに、主人が海に落ちた音を先に乗っていたAさんが気がついて、縄を放ってくれたらしんです。ところが主人は意識が無くてそれをつかもうとしなかったらしいですわ。Aさんが海に飛び込んで片手で船に捕まりながら主人のあごを海面から出してくれたらしいです。ところがそのまま動けなくて叫んでいたらしいけれど、朝が早く通行人がいなかったらしんです。ところが神様っているもんですね。そこへ朝早く網を上げに行った親子の船が沖から帰ってきて二人を見つけてくれたらしんです」「命の恩人じゃないの、一生頭を下げ続けなければならないね」「そうなんです、その方々が携帯電話で119番してくれたんですが、救急車の人たちが主人を海から上げることができなかったんですわ。それで今度はレスキューを呼んでやっと引き上げられて救急車に乗って運ばれたんです。」「海から上げるなんて、服を着たままだと重たくてできないんだなあ。ところでご主人は落ちる前に意識が無かったのではないの?」「そうかもしれんなあ、何も覚えとらんのじゃ」  あまりしたくない体験だが、海の傍で暮らしていると時々こういったニュースに触れる。生還しているから笑い話ですむが、海に沈んで数日後に見つかるようなこともある。  その話の続きで、最初に脳梗塞を起こしたのが55歳と言うのも知った。30年近く結構幸せに暮らしているから現代の医療水準の高さが分かる。3度も生還させてもらっているのだから「御主人、牛窓町のために役に立たれよ(立ってよ)」と言うと返事が返ってこなかった。こんな時こそ釣り針のようにひねられて突き刺さるような漁師ギャグが炸裂するのに。「4回目も見事生還せられえよ(しなさいよ)」僕が代わりに言ってあげた。