電話の向こうに広がっている光景を思い描きながら、なんとも言えぬ穏やかな空気に浸っていた。もっとも、電話の内容は、奥さんの体調不良の相談だから歓迎すべきことではないのだが、それを第3者には払拭してしまいそうなくらい、夫婦の思いやりが伝わってきた。  ある方の紹介で電話をくれたのはいいが、奥さんが日本人ではないので、症状が僕に上手く伝わるかどうかを懸念していた。そこで考えてくれた方法が、専門用語を知らないが、受話器を通さなくても聞こえたり話せたりする方法だ。今の電話機にはかなりの確立でついている機能だ。僕の薬局の電話機にも付いていそうだが使ったことはない。音質は少し落ちるが、確かに便利だ。上手く僕に伝えられなかったことを、傍にいる御主人がリアルタイムでフォローしてくれる。又逆に僕の単語が専門的になると御主人が分かりやすく要約してくれる。そのやり取りがすべてこちらには聞こえるから、まるで手に取るように雰囲気が伝わってくる。箪笥があの辺りにあって、その前のホーム炬燵に入り、みかん篭の前に電話を置きなどと勝手に想像する。本当は洋間かもしれないが、なんとなくその想像はできなかった。それは奥さんが、20年前にかの国からやってきた人だと分かったからだ。今でこそかの国の人は沢山日本にきて働いたり勉強しているが、20年前は珍しい。   最終的には、僕自身も奥さんも、又御主人も納得する結論に導けたと思う。病院にかかっても言葉の壁があるのか、本人の訴えとは全く関係ない病気を指摘され、途方にくれていたみたいだが、この数年の濃密なかの国の人達とのかかわりが、こんな予期せぬところで生かされたと感慨深かった。  労働力不足でやたら移民を推進する声が上がっているが、あの夫婦のように、よほど良質を選別しないと、失うものが大きすぎる。国というものは企業のものではないが、実態は企業の利益を追求するためにすべての公の機関が動いているような気がする。企業だって、公の機関だって、所詮ごく普通の人間の集まりなのに、餌に群がる池の鯉のように見える。