苦言

 キリスト教徒の何割かの人は耳が痛かったのではないか。  ローマ法王が、ペットの犬や猫に注ぐ愛情を人間に向けるように苦言を呈された。隣人に向けられる愛がペットに注がれすぎだと言うことらしい。  ペットに注ぐ愛情を人に向ければ、社会は格段に良くなる。犬嫌いの僕がひょっとしたきっかけで既に30年近く2匹の犬と過ごしてきたから、言われている事がよくわかる。この僕でもと言えるほど変わるのだから、元々好きだった人は、正に法王が言われたそのものではないか。ペットに注ぐ以上に隣人に注いでいる人もいるだろうが、それは少数派だろう。  ペットといて気持ちがいいのは圧倒的にその従順性だろう。最初の犬は、僕が傍に行くと必ず起き上がり正座した。どんなときにでもだ。そのまま寝ていればいいのといいたくなるようなときでも必ずだった。その様は痛々しいくらいだった。これは人間相手では決して経験できないことだ。自分のことを最優先に考えてくれる人など決していない。以前は母親がそれに近い存在だったかもしれないが、今は母が子を殺す時代だ。  前の犬は大きな雑種だったからいつもつないでいた。首に縄を付けられておとなしくしている姿を見るのは得意ではなかった。なんとなく居心地が悪かった。今の犬はミニチュアダックスだから、室内で自由にしている。屋外でも人に危害を加えないから自由にさせている、寝るときは必ず僕の布団にもぐりこんでくる。13年一緒に寝ている計算になる。そして何の習性か知らないが、必ず眠るときは僕の体に接触して眠る。最初は寝返りで押しつぶすのではないかと気が気で眠れなかったが、それこそ阿吽の呼吸で今では熟睡できる。これで情が移らないはずがない。  もう一つの愛情注ぎ過ぎの大きな理由は、ペット相手なら究極の愛の形を体験できると言うことだろう。それはなんら見返りを求めない究極の愛だ。無償の愛だ。何から何まで全て与えることばかりだ。世話ばかりだ。返ってくることなど期待もしない。これは人間相手ではかなり難しい。どうしても見返りを求めてしまう。それがペットなら純粋な愛情の形を保つことが出来る。この喜びもまた大きくて感動的だ。  人間が一番居心地が悪いのは、人間を相手にしているとき。人間が一番怖いのは人間。人間が一番信じられないのは人間。ペットと生きる人たちの心情はローマ法王でもなかなか変えることは出来ない。