敷居

 漢方薬を作りながら思わず涙ぐんでしまった。薬剤師らしからぬ行為だが、少しくらい感情移入してもかまわないだろう。嬉しかったのだから。  いかにも田舎のおばちゃんで、愛想は悪いが、心根は悪くない。僕が牛窓に帰った頃から薬局を利用してくれている人だ。もっとも、僕が帰って10年近くはごく普通の薬局だったから、手八丁口八丁で薬を売っていた時代だ。だから薬局を利用する人もそんなに何か大きな成果を得ることなどを期待していなかったと思う。マスコミで報じられたり、薬局で勧められたりしたもので、ちょっとだけ満足感を得ていたのだと思う。  僕の薬局が俄然変わったのは10年位経ってからだ。漢方薬を勉強して毎日そうした対象者が訪ねて来てくれるようになって、僕の薬局は薬を買うところではなくなった。それでも昔からのお客さんは、以前のようにちょっとしたものを買いに来てくれた。その女性も正にそうした範疇の人だ。世の中が医薬分業に舵を切り始めて、その女性が岡山市の大病院に喘息治療でかかっている事が分かった。毎月処方箋を持ってきてくれるが、義務的な会話をするだけで、病気には立ち入ることは出来なかった。何年も何年もそうした関係(一般薬の買い物、処方箋調剤)が続いたが、気がかりだったのは、一向によくならずにむしろ症状が悪化していることだった。それなのに、与えられるがまま病院を信じて黙々と治療をしていた。次から次へと新発売される先端のステロイドの吸入薬を使っても症状は悪化し、来るたびに息遣いが荒くなっていった。そうしているうちに、御主人のほうが体調を崩して、岡山まで車で連れて行ってくれなくなった。あの喘息症状で1人で岡山まで出かけるのは、車を運転できないから至難の業に見えた。  そうした懸念をこちらが感じていたときに、女性から、近くの病院であの薬を出してもらえるように出来ないでしょうかと相談を受けた。それは簡単なことだ。牛窓にも開業医が2人いるからどちらかの先生にお願いすればすむ事だ。ところが毎月大病院の専門医にかかっていながら確実に症状が悪化しているのを、田舎の開業医に紹介するのは躊躇われた。その時ふと頭に浮かんだのが、僕がステロイドが効かない喘息患者に使っている漢方薬を飲ませてあげたいと言う考えだった。となると、今までの処方内容に漢方薬を混ぜた処方箋を切ってくれる医者でないといけない。そんなことを頼んだら普通の医者なら越権行為だと怒るだろう。そこでやむなく息子に頼んだ。女性はとても喜んでオートバイで息子に勤める診療所に行き、その足で処方箋を書いてもらって帰ってきた。診療所は岡山市にあるが牛窓町と隣接していて、オートバイで10分でいける距離だ。そのことと、息子が意外と優しかったことで、とてもいい顔をして帰ってきた。あれから2週間が経って今日また処方箋を持ってきたが、あの荒々しい息遣いが今日はなかった。思わず「調子が少しいいんではないの?」と尋ねると「調子がいいんです」ととても楽そうな顔で答えた。  想像の範囲でしか理解できないが、喘息はかなり苦しいと思う。不器用な生き方しか出来ず、いったいどのくらい味方をしてくれる人がいるのだろうと思える女性を少しでも楽に出来れば、患者を息子に紹介したことが最善の道だったと言うことになる。これが本当の医薬分業なのだろうけれど、普通の医者とはとても出来ない。僕の苦手とする敷居があまりにも高すぎるから。