無為

 道路沿いに駐車場があり、その真ん中に畑を作っているものだから、みんなが活動し始める時間になれば、挨拶を切らせない。だから僕はなるべく早朝に畑の草を抜くことにしている。この時期だと時間がたつにつれて耐えがたい暑さになるので、そういった理由でなるべく早くと言うのも勿論ある。  もうほとんど草を見れば反射的にしゃがみこんで抜きたくなるように訓練された僕は、今、中学校のテニスコートに点在している草が気になって仕方ない。ほとんど麻薬犬状態だが、ここは理性を持って耐えている。特に雨が降った翌日など、草を抜くのに最高のタイミングだから、歩くたびにつけられるテニスコート上の僕の足跡に嫉妬する。  よく考えてみたら、この状況は当事者たちこそがよく見ているはずだ。毎日テニスの練習をしている声が聞こえるし、姿も垣間見れる。もうずいぶんと長い間僕は気がついているから、彼らも気がついているはずだ。でも、どうして抜かないのだろう。硬式テニスのように硬いボールならまだ草の上に落ちても反発力を失わないだろうが、中学生が使用している軟式ボールだと、弾かないだろう。その程度のことはどうでもいいのだろうか。あるいは燃える太陽の下で草を抜くなんてことはしたくないのだろうか。誰かが、それはほとんど大人だと思うが、草を抜いてくれて、当然のごとくテニスを楽しめると思っているのだろうか。  僕が彼らと同じ頃ならどうするだろう。当然草が生えていることなど無視するだろう。ボールが少しだけ草で方向を変えようが、跳ねなくても、しゃがみこんで草を抜くよりはましだ。誰かがやってくれて、そのうち快適な空間に戻ると考えていただろう。青春時代、何一つ褒められるようなことをせずに、ただひたすらに無為に過ごした人間が、どうでもいいようなことに気がつき口を出す。この気づきさえ後ろめたい。