健全

 今朝の新聞の地方版で、中学校時代の先生が亡くなった事を知った。当時、学校ではもっとも恐れられた先生で、猫背で体を揺らしながら歩く姿は、まるでご法度の裏街道を歩く人物のようだった。泣く子も黙るくらいの先生だったが、僕は学年担任が違っていたから直接的な関わりはない。ただ、当然学校ではしばしば見かけるから、上級生の噂を伝え聞いてそれなりに怖がっていた。
 もう50年以上前なのに鮮明に覚えている場面がある。恐らく放課後だったと思う。学校にはもう生徒の影はなくなっていた。僕は何かを忘れたのだと思うが、階段を駆け上がっていた。当時は木造の学校だったから、当然校内は上履きだ。それなのに僕は急いでいたのか面倒だったのか靴のまま階段を駆け上がっていた。と、兆度そこにその先生が上から降りてきたのだ。学校の階段だからかなり横幅がある。足元など必ず見えるし、確かにその先生も僕の足元を見た。当然だ、何らかの違和感があれば目は自ずと向くものだ。当然僕は怒られると思ったのだが、なんらお咎めなく通り過ぎることができた。肝を冷やしたが、その瞬間の違和感を50年後の今もはっきり覚えている。卒業して牛窓で薬局に従事してから、その先生も僕の患者になってつい最近まで漢方薬を飲んでいたが、その違和感を口に出したことはない。ただ、当時幼い僕はなぜ怒られないのだろうと確かに思ったのだ。そしてその時に思ったのが、父が丁度PTA会長をしていたこと、僕が成績が良かったことの両方かどちらかで怒られなかったのだと言うこと。そしてそれは、潔癖な青春前期の子供にとっては居心地の悪い良そうだった。
 その時に、校舎でよく耳にした大きな怒鳴り声でも浴びせられていたら、半世紀も後まで覚えていなかったのではないか。あるいは青春前期のたわいない一コマで済んでいたのではないか。そのとき僕はその先生、あるいは大人と言うものの評価を確実に下げた。
 汚部が政権に返り咲いてからの疫人達の忖度の悪質さを毎日のように見ながら、今の少年達も大人に対する評価をかなり下げているだろうことが容易に推察できる。領収書一枚なくしても始末書を書かされる小さな企業の人間にとっては、人を殺しても捕まらないが如くに見える。検察が機能している隣の国のほうがよほど健全だ。