根性

 「寒かったからそれ以上入っていくのは辛かった」とずぶぬれになった格好でそう言ったらしい。12月の寒い日だったから、父親は慌てて奥さんに風呂を沸かさせたらしい。海に落ちたと言ったらしいが、後年それは自ら入っていったと打ち明けた。後年だから、お姉さんも笑いながら弟の話を聞いたらしいが、もっと後年の今日、笑ってはいけないといいながら姉は今日も笑っていた。「弟に根性があったら30年前にあちらに行っていると思います」  そうか死ぬのも根性がいるのか。彼は根性がなかったから、それから30年も生きた。幸せだったのかどうかしらないが、パチンコと酒が代名詞になった。関西に住んでいただけあって、話が面白かった。だから僕と気が合った。僕が突っ込みで向こうがボケだ。晩年、と言っても僕より若いが、最後に道で立ち話をしたときに、体調が優れないから、自分の家と土地を買ってくれ、そしてそこに老人ホームを造って俺を入れてくれと頼まれた。よし2人で入ろうと冗談を言い合っていたら、老人ホームがいらないくらい早く逝ってしまった。  2人だけの冗談のような約束だが、何かあれば思い出す。ただ思い出してもその土地と家はお兄さんが相続されて、都会の人が所有者となった。つい最近、あることをきっかけに、そこを従業員の寮に使いたいと僕に仲介を頼んできた会社があった。そこで何年ぶりかにその家に入った。すると彼のまだ新しい写真が無造作に畳の上に置かれていた。家族葬だったから最期は見ていないが、病魔から逃れられ安らかな姿で横たわっただろう事は想像がつく。血の気がない顔で、息も絶え絶えに部落の役を果たしていた姿が目に焼きついている。田舎だから10年に1度近所の世話係が回ってくる。それを懸命にこなしながら逝った。酒とパチンコの人生でも時に含蓄のある話をする、そんなアンバランスが時に魅力になる人がいる。彼はそうした人だった。あのニヒルな笑い顔は、帰って来た所以だったのだろう。