覚悟

 「治せ言うほうが無理じゃわ」「もう覚悟はしとる」なんておおらかな方だろう。なんて勇気がある方だろう。悟りの境地に達しつつあるのだろうか。お医者さんを思いやる気持ちに溢れている。  まだ、70歳を越しているが元気そのもので、海に毎日船で出ている。日焼けして骨格もしっかりしているから僕なんかよりはずっと元気に見える。声も大きくて、話も大きくて、きっと楽しい人生を送ってきたのだと思う。昔は船乗りで瀬戸内海を東西に行き来していたみたいだ。  その男性は毎週処方箋を持ってやって来る。多いときには週に2回来る事もある。最初の頃は照れ隠しで「毎日来ているような気がするなあ!」と言っていたが、今はもうお互いに慣れてしまって、そうした無駄な挨拶はしない。このように処方箋を持ってくる機会が多いのは、いくつもの科にかかっているからだ。元気そうに見えても色々な不調を抱えている。ただ僕に言わせれば、不養生や気にしすぎ、果ては治るはずがないものまで病院にかかっているから、こんなに頻繁に薬を取りに来なくてはならないのだ。たとえば皮膚病など10年近くかかっていてますます悪化している。人間の手ではなくなってほとんど「象か!」と言うくらい悪化している。あまりにひどくて見ておれないので、僕の薬局で作っている皮膚病薬を無料で上げたら(紳士協定で介入できない)結構改善した。ところがやはりお医者さんのほうがえらいと見えて、いつものように処方箋を持ってくる。  他の疾患も同じようなものだ。医者にかかってさえいれば元気になったり病気が治ったりすると思っている人が多いが、この男性も同じだ。治せ言う方が無理だとか、覚悟をしていると言うが、無理だと分かっているなら、覚悟しているなら治療を止めればいいのに、ひつこく病院通いしている。本当は小心で、横着で、臆病で煩悩だらけなのだ。ただし、そうした人こそが普通なのだ。善良で地域を支えた人たちは皆こんなものだ。野心に満ち、人様を踏み台にして自分の欲望を満たす人種にこんな人はいない。そして運がよければ、そうした人間に生涯接することなく過ごせれる。ただ、そうした人間達に、僕らには見えない手段で多くのものを奪い取られていることは大いにありうる。目を凝らし耳を澄まし、悪意から遠ざからなければならない。そうしないと大切な人たちと一緒に不幸を強いられることになる。  このところ、見たくもないような人間、触れたくもないような人種がお日様の下を闊歩している。善良な庶民は崖っぷちにじわじわと追いやられていることを忘れないように。