判子屋

 またまた、お得でしたシリーズ。ただし、町中から印鑑屋?、判子屋さんがなくなるのではと言う懸念も同時に感じた。既に僕の町でも、もう随分前に判子屋さんが消えているから想像はつくが、こんなに便利さを見せ付けられたら最早太刀打ちできないだろうと察しがつく。判子屋さんが生きる道はやはり、妻が僕のところに嫁に来たときに持参したような、何十年も使える印鑑を作る腕を持つことだけだろう。当時、印鑑など持ってもいなかった僕だから、用途別の真っ黒の立派な印鑑を何本か見せられて驚いたし、お嫁入り道具として持参する習慣にも驚いた。以来、印鑑を新たに作る必要は全くなく、一箇所も欠けることなく使えている。いったい当時どのくらいの値段がしたのだろう。材質は分からないが、象牙でないことは確かだ。  ただ今回感激した便利さは、その種の印鑑ではなく、薬局業務用に使う判だ。処方箋の請求のために毎月必ず一度だけ使うもので、もう20年やそこら使っている。だからゴムか磨り減って、文字の太さがあるところは倍位になり、あるところは磨り減りすぎてインクがつかない。だから印鑑を押した後必ずボールペンで書き加える。毎回毎回不便だとは思っていたが、月に一度だけのことだから新しいのを作るのを躊躇っていた。正確には躊躇い続けていた。ただ、このところ、あまりにも磨耗して、修正が半分近くになったので、これで正式な書類として通用するのかどうか疑わしくなった。そこで若夫婦がしばしば利用している文房具の通販、キョウクル?アサッテクル?アサクル?ヒルクル?とか言う会社に注文を出してもらった。  娘はなにやら僕の使い古した店判の長さを測っていたが、その他の手続きは分からなかった。だが翌日には僕がお願いしていたものが届いた。それも700円を切る値段だった。何処の判子屋さんに言えばいいのか、どの位するのかなどと悩み続けていた数年が馬鹿みたいだ。ラーメン一杯を数年間のうちに一度我慢すればよかっただけなのだ。僕は倹約と言うより行をしていたようなものだ。処方箋の請求事務がスムーズになったし、何より綺麗だ。  ありとあらゆる普及品が安くなっている。贅沢も意味を失っている。簡素なものでいちいち感激する、それで十分だと思う。政治屋やアホコミや疫人の思う壺にはまらずにわが考えのとおり生きていく。それでないと人生は星のようには輝けない。