疑似体験

 「私なんて、そんなことしょっちゅうです」と言われても、何の慰めにもならない。それだけ今日のある出来事には驚いた。  調剤室で仕事をしているときに、燃えるゴミを入れる箱が一杯になっているのに気がついた。気がつくと言うより、1日何回かゴミ箱から市が指定しているゴミ袋に移すので、気をつけているといったほうが正しい。おおむねその作業は僕の担当になっているので、早速ゴミ袋をいつも収納している棚に取りに行った。棚は裏の事務室にあるので移動距離にしたら10メートルくらいだ。そしてその棚の前に行った時点で僕は何をするためにそこに立っているのか分からなくなった。本当に初めての経験だ。いったいなぜ自分がそこにいるのか分からなかったのだ。どのくらい考えただろうか。初めての経験に少しだけ恐怖を感じた。ただいくら考えても思い出せないから諦めて、調剤室にもどって、再び同じことをしてみた。そして再び棚の前に立つと、ゴミ袋を取りに来たことを思い出した。  僕が少し狼狽していたのを近くで姪が見ていたから、冒頭の慰めの言葉をくれたのだが、いくら姪が僕の子供くらい若くても、自分で言うくらい物忘れしやすい女性だから、慰めにならないのだ。ただ、僕には分かる。これは物忘れの始まりなんかではないことが。恐らく僕は考え事をわずか10メートルの距離で新たに始めていたのだ。僕は、ひとつのことに集中するのが苦手だから一度に多くのことを抱えて、次から次へとこなすことによって、集中力を途切れさせないように工夫してきた。恐らくこの10メートルの距離も僕にはただ歩くには無駄に思えたのだ。恐らく頭の中で意識して無駄だとは考えなかったかもしれないが、身についた習性がそうさせるのだ。その時僕は、ゴミ袋を越える優先順位のものを思い浮かべたに違いない。  僕にとっては珍しい興味深い経験だったが、おそらく僕の推理が当たっていると思う。ただ一瞬だけ擬似痴呆を経験したような気がする。そしてこの疑似体験は何かに生かせそうだ。本物の人たちの恐怖が少し分かり、その分少しだけ優しくなれるかもしれない。