行商

 2,3年前には良く見ていた光景なのだが、御主人が体調を崩してぱたりと止まった。それが今日復活した。  何気なく外を見ていたら、道路を挟んだお家の狭いの駐車スペースにかつて良く見ていた軽トラックが止まった。荷台には独特の幌がついていて、すぐに魚の行商の車だと分かった。ただそこから降りてきたのが青年でかつて見ていた僕より一回り上くらいの御主人ではなかった。でも、なんとなく廃業した魚屋さんが復活したのではないかと直感的に分かった。案の定、助手席からかつてのあの人懐っこい御主人が降りてきて、まるで空白を感じさせないかのように、慣れた動きで玄関を開け声をかけていた。若者は道路を走って渡り、我が家の横の路地を奥に走り、数軒の家の戸を開けては声をかけていた。我が家は仕事中に魚を買うような姿を見せることができないから利用したことはなかったのだが、復活が嬉しかったので妻に声をかけた。すると妻も驚いていたが、やはり僕と同じ感慨だったのか、急いで財布を持って出て行った。今は姪と薬剤師の二人がスタッフとして加わってくれ、こんな暇な薬局を6人でやっているから、妻が5分くらい抜けてもかまわないだろう。  程なく妻が肝がついたハギを4匹買って帰ってきた。近所の人も喜んでいて、なんでも親類の若い人が跡を継いでくれることになったらしい。不思議に思うかもしれないが、漁師町で魚市場があって、魚屋さんや行商が何軒かあれば、いつでも新鮮で高級な魚が食べられると思うだろうが、意外とそうではない。新鮮なことは間違いないが、高級ないい魚は街の市場に持って行ったり、地元の旅館や民宿に優先されて降ろされるために、必ずしも町民の口にいい魚が入るわけではない。ただ最近のブログでも取り上げたが、必ずしも高級な魚だけがおいしいと言うことはなく、新鮮だったら安くてあまり見向きもされないような魚だっておいしい。だから行商の方が安くて玄関までおいしい魚を運んでくれることは大歓迎なのだ。どの魚もほんのさっきまで泳いでいたものばかりだから美味しい。  福島の事故以来、太平洋の魚は食べない。瀬戸内か九州の西か、遠くノルエーなど北海産くらいを選んで食べている。瀬戸内の魚はいわば心中の気分で食べている。いわば意思を持って口にしているのだ。僕は、濡れ手に粟のやつらの蓄財に自分の命を差し出すほどのお人よしではない。何年後かに「しまった」なんてことを口に出すような哀れな人生を送りたくない。  漁港がある町にすむ人間の特権も、いくつかの職種の連携で保証される。その中の一つのパートを担ってくれることになった青年に感謝だ。