津高公民館

 Ohちゃんの唄も、わかこ?の唄も何度も聴いている筈なのに、今日岡山市のはずれにある津高公民館でのコンサートが一番良かったような気がする。二人の唄は毎年一度だけ、新見市にある城山公園で行われる野外コンサート(SONG巣)で聴いているだけだが、この違いは何だろうと思いながら聴いていた。そして僕はあることに気がついた。小さな会場ならではのことではないかと思ったのだ。会議で使われるいすを並べただけの、いや、なぜか舞台はあったが、PAも誰か個人の持ち物を借りてきたようなものだったが、それでいて歌い手が何を何故歌おうとしたのかが良く伝わってきた。言葉が、取ってつけたような会場に閉じ込められて、聞き手の耳に入ってこざるを得なかったのではないかと思ったのだ。たとえば新見の城山は、南(瀬戸内沿岸)に住む人間にとっては不思議な空間で、設置される野外の舞台の後方に、尖がった山々と晴れ渡ってもなお手が届きそうに低い空が圧倒的な存在感を示すのだ。それはどんなに歌い手が強い意思を持ってがんばっても、歯が立たない、比べ物にならない存在感だ。歌い手から出る歌詞がもろくも霧散して聞き手に届かない。僕はいつも唄を聴きに来ているのか、はたまた自然に敗北しに来ているのか、結論が出ないまま悶々として家路を急いでいた。  最近僕がもっぱら聴きに行くのは、和太鼓だったり、吹奏楽だったり、ジャズだったり、クラシックだ。若いときにはどれも選択肢にはなかった。考えてみればどれも言葉がない音楽のジャンルばかりだ。わずか数分の曲の中に思いを込める作業の困難さが分かるがゆえに、そしてそれは形として残らない宿命であるがゆえに、完成度が容赦なく評価される言葉のある音楽と距離を置いていたのかもしれない。  決して勧められるものでもないし、正しい聴き方でもないが、やはり僕は言葉に拘ってでしか、言葉のある音楽は聴けない。