確信

 60年間薬局で人をもてなし続けてきた母にとって、迎えの車に乗り込んだときに無表情の同乗者は辛いだろう。施設までの会話のない10数分に果たして耐えられているのかどうかは分からないが、恐らく沈黙に恐怖し、とりとめもない言葉を連発しているに違いない。  珍しく今日は車に乗り込もうとする母に、軽く会釈する男性がいた。ガラス越しだったから顔は見えなかったが、会釈をしてくれていることだけは分かった。車のドアまで見送りに行っていた妻が、「今日は恰幅のいいおじいさんが乗っていた」と言った。毎日見ている妻には珍しい光景だったのだろう。たったその事だけで話題になるのだから。なんでも革ジャンを着て、やはり母に会釈をしてくれたらしいのだ。  しばらくして妻が大発見でもしたように「あのおじいさんは○○さんだわ。やつれていたから分からなかったけれど、きっと○○さんだわ」と言った。僕は顔を全然見ていないから答えようがなかったが、その人に関わるエピソードを思い出した。  その人は町の有力者だからほとんどの人が知っていると思う。介護保険が出来た当時、その人の奥さんが、あんなものを利用する人間の程度が分かるみたいなことを僕に言った。制度が出来たときだから、ほとんど全容を理解できずに言った言葉なのだろうが、当時の風潮を良く表している言葉だ。まだ介護は家で家族が責任を持ってしなければならないと言うのが当たり前の時代だったのだ。だから奥さんがそう言うのは決して悪意ではなく、当然のこととしていったのだ。ところがそれから5年もしない内に、当の奥さんが介護施設に入居していることを知った。ご主人が自分で買い物に来始めたことで分かった。痴呆になったから施設に入れたと当時ご主人が教えてくれた。そして今日だ。奥さんに先立たれたご主人が介護施設の迎えの車に乗っていた。  こういった経緯を4文字熟語でどう現すのだろう。何か的確なものがありそうだが思いつかない。ともかくあまり大きな声で批判しない方がいいかもしれない。自分自身が当事者になることだってあるのだから。まさに批判していた制度に夫婦とも救われている。  国がやったことで評価できることをあまり思いつかないが、ことこれに関しては評価できる。現在、家庭で老人を介護しろと言われて出来る家庭がどのくらいあるだろう。人手と経済の両方の余裕があってやっとできるのではないか。その両方を満たす家庭がどのくらいあるだろう。  毎朝母を見送りながら若干の後ろめたさがないではないが、このシステムに依存せずに日常を以前の通りに維持することは出来ない。どうせ当時僕は適当に相づちを打ったのだろうが、15年後にまさに自分が当事者になるとは思っていなかった。それだけは確信を持って言える。