漢字

 さっき言ったことも、ついさっき言ったことも、この前言ったことも、全部忘れているのに不思議なことがある。母はテレビ画面に出てくる字は全部読める。朝から晩まで「もう何がなにやらさっぱりわからん(分からない)」が口癖なのだが、不思議なことに字は全部読める。医学的にはどう説明されるのか知らないが、傍にいるとなんとも不思議な光景に思える。  脳の中で使う場所が違うのか、幼いときの訓練の賜か分からないが、他の人でも確かめてみたい気がする。長い間泳いでいない人でも無意識に泳ぐことが出来るのと同じように、いったん身に付いたものはそぎ落とされないのだろうか。そう言えば他人に対峙したときは、往年の接待癖で、結構相手に頭の老化を悟られないくらいの応対も出来る。  そうしてみると僕の行く末は悲惨だ。母ほど徹底して身につけたものがないから・・・いやある。のめり込んで僕の血となり肉となったものがある。来る日も来る日も、雨の日も風の日も全身全霊を傾けて青春時代精進したものがある。軍艦マーチに鼓舞されて、右手の親指に全精神を集中させて、寸分の狂いもなくバネを弾いた。そのおかげで、僕はなけなしのバイト代をすり、 相手は益々豊になった。  僕が母の年齢になったら、「訳がわからん、訳がわからん」と繰り返しながら、しっかり右手だけは固定しているのだろうか。