天は人の上に

 伝記少年だった僕は、訳も分からず手当たり次第小学校の図書館から借りて読んでいた。そのほとんどは記憶から消えているが、数日前ウォーキングをしていて、福沢諭吉が言ったとされる「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というフレーズが突然浮かんだ。頭の中を空っぽにしたくて歩いているのに、何故かフル回転する。色々な想いが洪水のように押し寄せてくる。諭吉の言葉が浮かんできたのは、小学校の頃に勝手に理解した意味が、未だまだ実現どころか、ますます逆行しているように思えたからだ。本来の意味とは異なっているかもしれないが、幼心に人は皆平等なのだと教えられ、何となくそれはその後の僕の考えの底にあるように思う。 見渡せば現代は、人の上に人を造り、人の下に人を造っているように見える。江戸時代のように意図的に制度として定めてはいないが、何となくあうんの呼吸でそれが生きているように感じる。  ある青年が東北にボランティアを兼ねたアルバイトに行くという。純粋な気持ちは良く分かるが、本来ならあの悲惨な状況を作り出した奴らがかかりきりで復旧の手伝いに行くべきだ。会社を挙げて懺悔の手伝いをしているとは聞いていない。未だ以前と何ら変わりなく、高給を取り安全地帯で暮らしているのだろう。不定期雇用に甘んじている青年を、甘い言葉で放射能の危険がまだ残る地域に呼び寄せることに、強い憤りを感じる。余命がが後20年くらいの世代の人間が粋に感じて行くのとは根本的に違う。遺伝子に影響をもろ受けやすい世代が、生活するために行くのだ。 年寄りが始めて若者が死んだあの戦争のように、年寄りが金儲けのために始めて、若者が被爆する。まるでそっくりな光景が繰り返される。何も抵抗しない若者は、抵抗できない若者達は、人の下にいる人のように見えて仕方がない。失うものすら持てない若者達から最後のものまで奪おうとしているのか。