殺し文句

 二日連続でお葬式の話で恐縮だが、時代の流れを感じたのでもう一度。  都会の人に言わせれば、まだそんなことを言ったり、しているのかという内容だろうが、より封建的な地域の人に言わせれば、そんな考えのないことと言われるかもしれない。僕らの町がその中間に位置していると言うことだろうか。 意味のなさはこの数年ずっと感じていた。葬式があると、町内の男性陣は弔問者の受付をする。香典を預かって、住所と名前を記帳してもらうのが役割だ。女性陣は親族やそれこそ手伝いに来ている町内の人用に、立飯(たちは)と呼ばれる巻きずしと吸い物を出す。町内各戸から出るから男性も女性も10人を超える。想像してみて欲しい、黒のスーツで固めた男性が10人も受付に並んでいたら、御法度の裏街道を歩いている人達と間違えられても仕方ない雰囲気だ。その前で、ふくさから香典を出し記帳するのは勇気がいる。受付は2人か3人いればすむことだし、その方が威圧感はない。ただ昔からそうしているという理由だけで、今回もそれを踏襲した。女性陣は簡単な調理場を借りて吸い物を作るのだが、それは熱湯をかければ出来るもので僕にだって出来る。巻きずしは寿司屋からとったものだから、それこそ葬儀屋さんのスタッフで充分出来る。スタッフは洗練されている人ばかりだからその方が接待される側も気持ちがいいかもしれない。 要は、もう近所の住人の力を借りなくても葬式は充分、いや寧ろ借りない方がスムーズに厳粛に出来るってことだ。業者の力にはかなわない。まして段々としきたりを踏襲出来る人が地域にいなくなったのだから、この辺りが潮時だ。役を引き受けるたびに2年間は誰も亡くならないことをすぐに祈るほどの重圧からもうそろそろ解放されてもいいと思った。  何となく冗談を言ってもまだ許されるだろう時間帯があったので、僕の最近の想いを集まってくれていた人達に提案してみた。するとすぐにあちこちから賛成の声が挙がった。誰かが意を決して言えば簡単に新しい流れを作ることが出来る。「年寄りが反対する」と言う得体の知れない殺し文句は今日は出なかった。今日は都合のよい殺し文句を見送った日でもあった。