職人

 職人だから理屈っぽいのか、理屈っぽいから職人になったのか知らないが、まさに職人気質を地で行っている人だ。 痰が沢山出て困るからと言って漢方薬を取りに来たのだが、タバコをやめたらと言う僕に、やめても痰は減らなかったとサラサラその気はないらしい。と言うことは嘗て禁煙をしたんだと一応評価をして少し褒めると、口が急に軽くなった。嘗て2度禁煙をしたことがあるらしい。最初は恐らくこの痰のために禁煙したのだろうが、2回目は違う。1回目の禁煙が痰を好転させなかったという思い込みがあるから、同じ愚はくり返さない。2回目の理由がふるっていて、禁煙後に吸うタバコの気持ちよさがなんとも言えなかったらしい。1年くらい禁煙した後、最初の煙を深く吸い込むと、意識が薄らぐような気持ちのよい恍惚の瞬間が味わえたのだそうだ。もう恍惚の人に近い年齢なのだが、まるで若者が手を出してはいけないもので恍惚感を得るのと同じような快感を得ていることがその表情から読みとれる。さすがにそれは長続きはしないらしいが、あの恍惚を味わえるから又禁煙に挑戦すると言っていた。彼にとって禁煙は健康のためではなく、あの歓びのためなのだ。いわば80歳を過ぎた老人の合法的な薬物なのだ。  まあ、その年までタバコを吸いながら健康で来れたのだから、そんなに力んで禁煙をすることもない。タバコにたいして免疫はしっかり出来ているのだろう。日常的に飲んでいる薬は一つもないのだから立派なものだ。「食後に薬を飲まないといけないなんて思いながらご飯を食べても美味しくはない」と言う理屈も、身をもって証明しているから説得力がある。さぞかし豪快に生きているのかと思うが、実はそうでもない。「週に一度、力一杯息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出し、吐ききったところで20秒息を止めるんじゃ。その後吸った空気の美味しいこと美味しいこと。空気代だと思って神様におさい銭をあげるんじゃ」なんて殊勝なことも言う。  職人だから律儀なのか、律儀だから職人なのか知らないが、僕などの及ばない発想をする。