三が日

 まあ、この味気なさはどうだろう。年々存在意義を失ってはいるが、今年は一挙に極まった。三が日外出したのは元旦に教会に行ったことと、3日にお墓参りに行ったことだけだった。もっとも、僕の立てていた予定表はぎっしりつまってはいたが、そのほとんどは家の中でやることばかりだったから、予定通りと言えば予定通りなのだが。そしてそのほとんどをやり遂げたのだから、本来なら充実していたと評価してもいいのだが、そのやり遂げたことと正月という行事が全く連動していないのだ。ほとんど残務整理に近いことばかりだったから、新しい一歩ではなく、後始末に近かった。働いていると時間に追われる局面ばかりだから、この停滞した時間は僕にはかなり苦痛だった。働くこと以外に取り柄も生き甲斐もないことを思い知らされた三が日だった。  ただ今年の正月の過ごし方は僕にとって例外ではない。延々とくり返されてきたことだ。元々好奇心は弱かったが、ますます衰退しているのを感じるから、来年こそは何か新しい正月の過ごし方を考えてみようと思った。自由すぎて不自由な拷問は学生時代6年間に渡って受けてきた。身につけてきたものがその拷問に耐える力だけでは洒落にもならない。  体調不良の為、志し半ばで帰国したかの国の女性から「お父さん、お母さんと一度遊びに来て」と新年の挨拶代わりのメールが届いた。そうかそうすれば正月という味気ない数日が意味を持つのかと思った。実現するには色々障壁があるが、まず高所恐怖症から克服しなければならない。なにぶんみみっちい性格の僕は物事を大所高所から眺めるのをもっとも苦手としているのだから。