遠慮

 親にとって子の幸せに優る喜びはない。自分のそれに比べることも出来ない。もし成人した子供が家から出ることが出来ないとしたら、心痛はこれ又推し量ることは出来ない。 その人も又、長年その環境にあった。だから顔も知らない単なる薬剤師に礼儀を逸する態度を取ってもさもありなんと僕は思っていた。(ある方にお世話してあげてと紹介された人)背負っているものがあまりにも大きくて、礼儀なんてものに気持ちをさく余裕もなかっただろう。悪意ではないのだ、礼儀知らずはいわば悲鳴だったのだ。  抑揚のない気持ちの全く入っていない事務的な電話しかもらったことがないから、今日は受話器をとった瞬間に、事態がかなり好転しているのではないかと思った。案の定、お子さんがほぼ毎日仕事に出かけているという報告と、漢方薬が切れたと言う報告だった。いつもは淡々と後者の連絡だけだったのだが、今日は相手から前者の報告をしてくれた。沈んだ声しか聞いたことがなかったから、ごく当たり前の話し声に安堵した。心の重荷がとれれば、いつだってごく当たり前の人に戻れるのだ。これで家の中が少しは明るくなるのではないかと思った。 何の偶然でこうなったのか分からないが、僕の薬局は珍しいことだが若者に漢方薬を作る機会が多い。漢方薬と言えば年配者が利用するもののようだが、僕の薬局に限って言えば圧倒的に若者が多い。それも少しだけ気持ちが落ちている人が多い。気持ちが落ちれば付随して体調も悪くなるが、その辺りはさすがに若者で、臓器が傷んでいるわけではないので、早く回復する。鬱々とした日常を解放してあげれば自ずと体調も改善する。  いくら病院で精密に調べてもらっても身体に異常はない。ただ本人の苦痛はその事とは全く関係なく大きい。対人関係が、家族、友人、地域社会、職場で築きにくいご時世で、上手く生きていくなんて至難の業の人が多い。上手く生きて行かなくてもいいのに、上手く生きていくことを良しとする価値観から逃れられない。  一部の有能な人を除いて、人を高きに導くことなんか出来ない。ただ人は常に高きを目指すものではないから、谷底に落ちた人に、それが浅いか深いかは別にして、手を差し伸べることくらいは出来る。僕ら凡人でも小川に落ちた人に手が届くことくらいはある。その手も、嘗て小川に落ちた経験がある人なら上手に伸ばせるし、谷底に落ちた経験がある人なら、妙案を思いつく。  人がそれぞれの分相応の志をもって歩く道に帰ってきて欲しい。監獄のような日常から戻ってきて欲しい。河原の石ころをポケットに忍ばせ上がってきて欲しい。一人部屋の中で忍ばないで欲しい。生きることに遠慮しないで欲しい。