海水浴場

 自分の町なのにもう何年も来たことがないなと、砂浜を優しく洗う波の音に諭された。牛窓町には2つの海水浴場があって、一つは急に深くなっていて目の前に大きな島が見える。(牛窓海水浴場)もう一つは大きなな砂浜で、遠浅でずっと沖まで遮るものがない。(西脇海水浴場)対照的な二つの砂浜だが、方や数年、方や20年以上行ったことがない。朝は牛窓海水浴場、夕には西脇海水浴場に放射線量を量りに行ったが、朝は数人が砂浜に腰をかけ、竿の先が揺れるのをひたすら待っていた。そして夕には一人の釣り人が広い砂浜を独占していた。 思えば子供の時以来彼らのように時間を止めたことはなかった。忙しかったのか何もしないことが恐かったのか、何かしら常にしている、動いている状態を作り続けてきた。それで何かを作り上げたとか、何かを極めたとかがあるわけではないが、竿が揺れるのを見ながら1日を過ごすなんて事は出来もしないし考えられもしなかった。  いつかあのような時間が心底ほしくなるのだろうか。それとも従来のように時計の針の上を走り続けるのだろうか。余りにも小さな僕の営みにたいそれた理由をつける必要はないけれど、知らない世界や知らない営みなどを多く残しすぎたかもしれない。今日僅か数キロを車で走っただけで、嘗て見なかった建物や風景を見つけた。世界は無限に広がっているのに、こちらから訪ねることはしなかった。  あの土地の人はある日を境に、今日僕が見たような生い茂る木々や緑の絨毯や波が寄せるたびに吸い込まれる砂浜の光景を見ることが出来なくなった。生活の場を追い出される屈辱を口に出さない人々の忍耐や寛容をいいことにまだ追い打ちをかけようとする街に住むお偉い方。どうぞ放射能はあなた方が食い飲んでくれ。もうこれ以上田舎を、田舎者を馬鹿にしないで。傷つき落ちた雀さえあなた方のせいのように思える。