「衰えかかる命を知るとは穴から空を覗くことさ、足を痛めた競馬の馬が小屋で死ぬのを待つようなものさ」若き日のボブディランはこの様に歌った。僕は今日この歌を思い出さずにはおれない人に薬を出した。2週間に一度大きな病院の処方せんを持って薬を取りに来るが、衰えようが手に取るように分かる。場合によればまだ不治の病に属するその病気に、筋肉が、いや脂肪までもがそぎ落とされている。会うたびに形相が嘗てとかけ離れていく。皮膚はくすみシミだらけになり水分は失われ干物のようになっている。  自分でも気がついていないわけがないのだが、気丈に振る舞う。本心を尋ねることは出来ないが一縷の望も抱いているようにみえる。まだまだ充分に若いから諦めるなんて事は出来ないだろう。勇気とか希望とか、不安とか絶望とか、ベクトルはめまぐるしく振れているのではないか。心穏やかに暮らせられるわけがない。誰もが必ず一度は通る道を今確実に歩んでいる人にかける言葉をしらない。核心に触れないように差し障りのないたわいない会話で茶を濁すが、30年にも及ぶ僕の薬局人生を客という立場で支えてくれた人だ、出来れば穏やかな日々であってほしいと願う。お互い若いときからお互い若くない今まで、くねくねと曲がる言葉でやりとりしていた。ただ他の人には言葉の荒さで臆病を隠し、大風呂敷で孤独を隠し生きてきた。幸せを何で量ったのか知らないが、いつも斜に構え眉間にしわを刻んでいた。誰にも看病されず不治の病かも知れないものと闘っている。  這い上がることの出来ない穴から見える空は何色なのだろう。