閉店

 今日で地元のある電気屋さんが店を閉じる。僕が今の場所に薬局を移すまでいわゆるお隣さんだった。僕より一回りくらい上の方で、お子さん達がうちの子供達をよく遊んでくれた。夫婦そろって決して口が上手ではなかったから何かを買わされたという経験はないが、我が家の家電はほとんどそのお店から買ったものだ。今の住所に移ってきてからもなるべくそのお店で買うようにしていた。 値段で決めたことはない。何となく下手な商売が居心地良かったように思う。見え見えの言葉はついぞ聞いたことはない。僕が一番苦手な下手に出られたことも一度もない。全てが普段通りだったように思う。量販店に押されての閉店ではない。僕みたいにいざというときに頼り切っている地元の人は多かった。いざというときがこれからはその日のその時間ではなくて、あちらの都合になってしまうのか。次なるお店を探さなければならないが、出来れば個人のお店にしたいと思っている。弟さんが隣町でやっているからと紹介されたからそちらにしようと思っているが、今までのいざというときとは少しのずれは起こりうるだろう。遠くの量販店よりははるかにその時間は共有できるだろうが、時に危険を伴う家電のいざというときのずれは深刻だ。  若い頃から、そんなに物に囲まれることを願ってはいなかったが、年齢と共にますますその傾向は強まり、最低限の必需品しか揃えない余り上お得意の客ではなかったが、やはり一つのお店が閉じるのは寂しいものだ。嘗て個人の店が隆盛を極めた頃を知っている世代だろうから、一抹の寂しさや未練はあるらしいが、体がついてこなければ仕方ない。経営者兼下働きだから自分が終われば全てが終わる。懸命に働いて何が残ったのか知らない。いや、残すどころかその日その日が精一杯だっただろう。命が萌える新緑の頃、人知れず落ちる木の葉が螺旋を描いて舞う。