失望

 こんな奴に長い間支配され、鎖のない奴隷のように生かされていたのかと今更ながら気の毒に思う。どんな極刑にしたら何十年に渡る、そして何千万人にも及ぶ怨念に報いることが出来るのだろうかとよその国の事ながら思う。怒りを無くしてニュースを見ることが出来ない。こうした歴史に立ち会えることは嬉しいが、自由のために今もまだ奪われ続けている庶民の命がもったいない。命を捨てるほどの勇敢を讃えられてもその後の変化を見届けることは出来ない。自由を勝ち取るための代償はいつの世も庶民が支払わなければならないのか。  それに引き替え日本のそれはなんて軽いんだろう。ただ、ああいった悲劇を見ていたら軽いのは悪いことではない。次を狙っている奴らは、ころころ変わると外国から信用されていないと言うが、とてつもなく強くて質の悪いのが長年のさばるよりはるかに健全だ。所詮使い捨て程度で回っているのだから懸念する必要はない。役人の手のひらでしか何も出来ないことが今回もしっかりと証明されたのだから、あの肩書きが毎年変わるのも悪くはない。貝割れ大根を1回食っただっけで市民派などを名乗り、うつろな目をしょぼしょぼさせて椅子にしがみついているような奴には早くブラウン管から退場して欲しい。(ブラウン管は古いか、現代的にはさしずめ液晶画面かな。語呂が悪いなあ)何かを成し遂げたいなんて理想をもとから持ちあわせていなかったことなど明白だ。名誉欲だけで上り詰める人間なんて桐灰の貼るカイロ程度の値打ちしかない。  高村 薫がもう政治などに期待しなくて地力で生きていくしかないと述べていたが、全くその通りだ。以前から期待はしていなかったが、せめて邪魔だけはするなと言いたいくらいだ。現代のこの国で庶民にまさか銃口を向けることはないだろうが、失望という名の矢はすでに放たれている。