歌声

 新しい歌を覚えたかったので、ある若いフィリピン女性にテープレコーダーに吹き込んでもらった。コードだけは分かっていたので、拙いギターでボロロン、ボロロンと伴奏をしたのだが、後で聴いてみて彼女の歌声の美しさに圧倒された。いつもはフィリピンの人達が集団で歌うので、一人だけの歌声を聞いたことがなかった。みんなの声に隠れて取り立てて感動するようなものではなかった。ところが古いテープレコーダーに残っている彼女の歌声は、ソプラノで透き通るような声だった。どう表現すれば少しでも伝わるのだろうと思案しても、声を言葉で伝えることは至難の業だ。彼女が国に帰るので是非最後に独唱で歌声を聴かせて欲しいと彼女に頼んだのだが、その時僕は合っているのか合ってないのか分からないが英語で「貴女の歌声はとてもピュアーだから是非一人で歌って欲しい」とお願いした。勿論この中で実際に単語を発したのは「your voice is very pure」だけなのだが、意図は前の日本語の通りなのだ。  彼女はただ微笑んだだけだったから、通じたのか通じなかったのか分からなかったが、傍にいた日本語が少し分かるフィリピン女性も僕の提案に賛成してくれたから意外と通じたのかもしれない。その答えは未だ不明だが、誰が何処でどうフォローしてくれたのか、最後の日曜日彼女は厳粛な式の中で清らかな声で神を賛美する曲を歌い上げた。伴奏は同じ国の若い男性がしてくれたから、僕は彼女の前方の椅子に腰をかけ、背中から聞こえる澄んだ声に包まれていた。いや恐らく僕だけではなく、多くの方が同じ体験をしていたのではないか。実際その時の歌声に驚きの感想が後日数人から寄せられたから。  大げさな言い方かもしれないが、僕は今まで彼女に優る歌声を聞いたことがない。勿論クラシックなどのコンサートに行けばプロの素晴らしい声に圧倒されるのだろうが、少なくとも彼女の肉声に優る声の記憶がない。調剤室で薬を作っていても彼女の声がかなり現実に近い形で耳の中で再生できる。何度も何度もあの歌声が耳の中で、いや頭の中で再生されるのだ。  初めてテープを聴いたときから、美しいとか上手いとかの形容詞は適さないと思っていた。清らかと言う言葉が一番近いのではないかと思ったのだ。歌が好きそうなのは分かるが、あの声は天性のものだろう。歌声だけで人を魅了できるなんて事があるのだと実感した。又聴きたい声があると言うことも知った。  研修という名の労働を終えて彼女は南の国へ帰っていったが、歌声という形のない強烈な記憶を残してくれた。化粧箱にも入れられていないし、包装用紙にも包まれてはいないが、いつでも取り出せれて、いつまでも消えない心のテープレコーダーだ。