クリスマスプレゼント

 田舎にいるからジングルベルも聞こえてこない。不景気だから日本中そうなのかと思うが、テレビではやたらと煽っている。どうせネタを捜す力もないから恒例行事は有り難かろう。  ジングルベルもパーティーもプレゼントも、本来キリストが誕生したこととは何の関係もない。どうして豪華な宮殿で生まれずに馬小屋で生まれたのかを深く考えるべきで、物が行き来し、ご馳走をほおばり、酒に気分を高揚させるなんて、本来の信仰とはかけ離れている。まさに巷で行われている商業主義クリスマスにどっぷりと浸りそうな信者を戒めるために、昨日、尾道教会の神父様が「ただ(無料)のクリスマスプレゼント」について話して下さった。お金をかけなくても、いや、お金をかけないからこそ、素晴らしいプレゼントが出来るというものだが、聞いていて耳が痛くなることばかりだった。ジングルベルもパーティーもプレゼントも、ご馳走も、酒までも準備万端で迎えようとしている玉野教会のことを知っていたのか知らなかったのか分からないが、耳だけでなく心筋までが痛くなりそうだった。 僕は今日その聞いたばかりの話を披露するのだが、僕が届けたいのは、クリスマスを一人で過ごす人達だ。信者とかそうでないとかは全く関係ない。クリスチャンがキリスト教徒的だとは限らないし、クリスチャン以上にキリスト教徒的な人など数え切れないほどいる。どんな宗教だって、いや宗教など全く興味もない人達の中に素晴らしい人は無限にいる。  ジングルベルもプレゼントもパーティーも無縁の人達に、僕が一番大切な人達に届けたい。そしてその「ただのプレゼント」こそを、クリスマスなどと日にちを区切るのでなく、ずっと切れることなく贈りたいと思っている。その為に精進しなければと想いながら教会を後にしたから、僕はその時点で価値ある「ただのプレゼント」を頂いていたのかもしれない。 神父様は物を贈るのではなく、次の5つのことをプレゼントすべきだと紹介してくれた。まず「聴く」こと。聞くことではない。心を込めて相手が言わんとすることを理解すること。話し終わるまで待つこと。「微笑むこと」「許すこと」「感謝すること」「褒めること」。こうして列挙してみると、どれもお金では買えない、どこからも調達することの出来ない、代用のきかないものばかりで、実践するには人間としての地力がいる。生まれてからずっと培った人間力を総動員しないとこのプレゼントを渡すことは難しい。難しいからこそ価値も計り知れなくて、このプレゼントをもらった人の笑顔は、それこそ何にも代えることが出来ないものになるだろう。  クリスマスは百貨店のショーウインドウやレストランの香りの中からやってくるのではない。凍えた夜にダンボールで体温を逃がさないようにして眠る人達に降る月明かりのように、できるだけ些細なことを出来るだけ全力で尽くせとやってくる。