舞台

 神戸に住んでいる息子さんが扁桃腺を腫らして高熱が出ているから薬を作って下さいと言ってあるお母さんが来られた。午後の7時を回っていたから、「明日送ってあげても明後日の午前中しか着かないですね」と言うと、これからすぐに持っていくと言う。ご主人がおられないからお母さんが持っていってあげるのは分かるが、今から高速道路をぶっ飛ばして届けるのかと思い、すごいですねと伝えた。するとお母さんは、さすがに神戸みたいな大都会は運転する勇気が無くて、新幹線に乗って届けると言う。これはこれで又驚きだ。新幹線代が神戸の往復だと恐らく1万円以上かかる。でも息子さんの所に泊まって看病してあげれるのだからそれはそれでいいかと、ごく普通の想像力を働かせて言葉を繋ぐと、息子さんは男子寮に入っているから母親でも泊まれないそうで、どこかホテルに泊まると言っていた。もうこうなれば驚きの二乗だ。ひたすら母親の深い愛情を感じるのみだ。その女性はとてもしっかりしていて知性的で、僕も密かに尊敬しているのだが、愛情の深さも半端ではない。「でもきっと息子は怒るんですよ、いらん事をしてって」と自嘲気味に言うから「それはいたって正常です。親から自立している男なんかそんなものですよ。逆に息子さんが喜んで歓迎してくれたら心配したらいいよ」と答えた。「そうですかね、そんなものですかね、そうですよね」と納得して急いで帰っていったが、心はもう息子さんの所だろう。疎まれても出来ることをしてやりたい親の気持ちは良く分かる。僅か数日分の薬を届けるのに旅費と宿泊費代で2万円以上を使う羽目になるのだろうが、母親の愛情に計算機はない。 およそ子供が連絡してきた時などいい事はない。だから音信不通気味が気が楽だ。何とかなっているならそれでいい。何とかならないならそれでもいい。所詮親は尻ぬぐい役だ。端役に甘んじるしかない。何時までも舞台に立ちたいのなら、同じ舞台ではなく違う舞台を持てばいい。子供などには依存しない舞台で何時までも演じればいい。舞台の袖でマイクロフォンを握っている監督は僕らの人生にはいないのだから。自由に立つべき舞台を選べばいい。端役も代役も親なればこそだが、四六時中親である必要もない。四六時中は小さな舞台の主役であればいい。カーテンコールの届かない朽ちた舞台に立てばいい。