逃避行

 どうして浜っ子の女性のジーパンが破れていたら格好良くて、僕のが破れていたら「奥さんに買ってもらったら」と同情を引くのだろう。僕は本来都会向きなのだろうか。 真面目で几帳面、きれい好きでコツコツ型、恥ずかしがり屋で怖がり、心配性で人の気持ちを察する。こんな自己分析をしている女性が、破れたジーパンでやって来た。薬局に入ってきた瞬間、僕は応対していた人の頭越しにちらっと見たのだが、もうその時にはとても優しい微笑みを浮かべていた。そしてその微笑みは夕方帰るまで消えなかった。天性の微笑みか、上記の自己分析を希釈する為に無意識のうちに身につけたものか分からないが、クールな彼女も恐らく魅力的なはずだ。  彼女と話をしていて、大都会の中で暮らす人の一こまをスクリーンでドキュメント映画を見ているように眺めている自分を感じた。一所懸命生きている人の日常が映されているはずなのに、妙にゆったりとした時間が流れていた。彼女が幸運にも掴んだ環境によるものかどうか知らないが、人を傷つけることが苦手な人特有のほのぼのとした映像が流れていた。 当然のことだが、僕は誰に対しても薬を飲んでもらう立場で、関心は如何に確率高く薬を効かせることが出来るかだけに集中していた。今日彼女から、薬を飲む側としての話をいっぱい聞かせてもらった。内容は僕にとって結構新鮮だった。結論から言うと、まあ今までのままでいいかと言う一応の合格点はもらえたような気がするが、それにも増してもう少し頑張ってみようと言うモチベーションを与えてもらったような気がした。知らない大都会で暮らす、1人の女性のドラマに少しだけでも参加できるのは、幸せなことだと思ったのだ。そしてそれがよりハッピーエンドに向かうように貢献できれば、こんな僕程度の能力でも生かされたことになる。 彼女と同じように心の落とし穴に落ちた人はいっぱいいる。縁あって、同じ穴に落ちた自分だからこそ役に立てているみたいだが、あの苦々しい思い出は誰もが脱出できるために役立てられなければならない。そうしないと逃避行のような青春が意味を失ってしまう。微笑みを絶やさなかった彼女だが、さすがに過去の症状を語る辺りでは時折顔が曇った。あの曇った表情を恐らく毎日多くの人がどこかで浮かべている。誰にも言えずに悶々と苦しんでいる人がいっぱいいる。今では心から思う、大きな成功を手にしなくて良かったと。嘗ての僕に一番似ている人達がただひたすら「普通」を手に入れるためにどれだけ苦しんでいるか理解できるから。  今頃彼女は空港からバスで家路を急いでいるだろう。遠路はるばる笑顔を届けてくれたことに感謝すると共に、頑張る理由を与えてくれたことに感謝する。