進学校

 あるお母さんに返信したメールの中で「何もしないことより、無理をして背伸びしてしまった方が悲劇的な青春を送ってしまう危険性をはらんでいる」と伝えた。頑張らなければ生きていけない時代、それを幼いときから当然のように目撃している時代には、叱咤激励はそれなりの効果を持っていたのだろう。ところが物質的に満たされている時代に生を受けた世代にとって、頑張る理由を見つけるのはとても難しい。目に見えるものは身の回りに氾濫し、目に見えないものはますます見えないところに押しやられている。見えないものを見つける目は心の目でしかないのだが、その目を研ぎ澄まされる機会は圧倒的に少なくなった。 過敏性腸症候群のお世話をしている人達の中に或る群がある。その群に横たわるキーワードは「進学校」だ。進学校なるものは全国に配置されているから、都市か地方かの差は感じられない。都市部では中学受験、地方では高校受験でその肩書きに挑戦するのだろうが、運良く合格して運悪く付いていけなかった人に過敏性腸症候群を発症するケースが目立つ。受験をするから本来的には優秀なのかもしれないが、進学後の成績までそれは保証してはくれない。だから進学してから思いの外成績が伸びなければ、嘗てとは裏腹にコンプレックスが頭をもたげてくる。合格後の高揚感から谷底に突き落とされるような屈辱だ。元々低い山にしか上らなかった人にとってはその落差はたいしたものではないかもしれないが、上った山が高ければ高いほど落ちたときのダメージは大きい。 もしという言葉が成立するかどうか分からないが、もし彼ら彼女らがもう一段下の学校に進学し、その学校でトップクラスに属することが出来たら、過敏性腸症候群を始めとした病気のような病気でないものにはならなかったのではないか。希望に向かっての緊張と屈辱の中の緊張では、同じ緊張でも天地の差がある。失った自尊心を埋め合わせるには、他者を攻撃するか自分を攻撃するしかない。もし他者を攻撃することに得てている人は不良のレッテルを貼られ、もしそれが出来ない人は自分の身体を傷つける。 代償は取り返しのつく範囲までだ。振り返れば夢は限りなく幻想に近かったことに気がつく。夢が破れても山河は残るのかもしれないが、幻想が破れれば自己破壊が進む。青春に青春という名の墓標が立つ。