児島湾

 岡山県南を西に向かって走っていると、南側は瀬戸内海だから山は本来少ない。当然北側、それも平野の向こうに低い山が見えるのが普通の光景だ。ところが僕が毎日曜日通る県南のある地帯は、右(北側)に広がる平野、左(南側)に小高い山という景色になっている。本来とは逆なのだ。そこはまっすぐな道路が直角に交差するように区画整理された広い土地で、道路が土手よりかなり低いところを走っているから、場所によっては遠く北側に見える山は全く消えて、岡山県には余りないようなだだっ広い土地を実感させる。  ほとんどの道路と並行して水路が走っている。場所によって幅は違うが、結構広い水路だ。通い始めた当初は別に気にもしなかったのだが、そのうちああ、これが干拓地なのだと分かるようになってきた。とってつけたような区画整理や、何処まで行っても水路と並行して走る道路。ああ、ここは元は干潟だったのだと悟ったのだ。僕が幼いときに、ここを渡し船で渡っていた記憶があるのだ。母の里に行くのに、バスから降りて対岸のバス停まで小さな渡し船に乗らなければならなかった。僕が小学校に上がる頃、湾を堤防が横断して渡し船は役目を終えた。その時の便利さは子供心にも忘れられない。それ以後、堤防をバスで横切るだけの景色だったから、わざわざ降りてその辺りを走るような経験はなかった。記憶が薄れるに従って、僕は元々ある土地とばかりに思っていた。今日何となく意識して走ると、そのだだっ広い場所から出るときに、山際の道へ数メートル登り、その後数分山に沿って走ることに気がついた。走りながら今来た北側を見てみるとかなり低いところに広い土地が広がっている。所々に農家があり、後は畑のように見える。これがまさに教科書にも載っていた「児島湾の干拓地」なのだ。不覚にも、その中を走っていながら気がつかなかった。 僕が生まれる前から干拓を始めたみたいだったが、当時仕方ないことだったのだろうか。必ず必要だったのだろうか。所々に建っている家、耕作を止めたような土地。何十年後を予測することは出来なかったのだろうが、偉い人の利権か思いつきで広大な自然の姿を破壊して得たものは何なのだろう。一度形を変えてしまうと大がかりなものになるほど復元は不可能だ。偉い人は辞めてしまえば責任をとらなくてすむから、目先だけの利益を追求する。もしこの広大な土地が、昔のままの干潟だとしたら、星の数ほどの生物を育んだだろう。そしてその恩恵は人間にとっても計り知れないだろう。人口は減りつつあり、米も余るほどある現代では無くても良かったものだろう。デフレだから欲しがらないことを良しとしないような論評も目立ち始めた。贅沢を奨励するような専門家の声も聞かれ始めた。僕は経済は良く分からないが、本当に怖いのは贅沢を奨励するような心のデフレではないのか。品位のデフレには日本銀行も打つ手はないだろう。

(参考) 児島湾の湾奥を締切堤防によって締め切って造られた人工湖である。締切堤防の総延長は1,558mである。児島湾周辺の干拓によって増加した農地の用水確保と塩害防止、低湿地の排水と干拓堤防の強化を目的として造成された。ダム湖を除いた人造湖としてはオランダのアイセル湖に次ぐ世界で2番目の広さを持つ。日本でもっとも水質汚染の激しい湖沼のひとつとされ、春先から夏場にかけては湖一帯で悪臭の発生することがある。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼