堪忍袋

 いったいこの落差は何だ。食事の度にテレビのスイッチを入れるが、およそ見るに耐えられない番組ばかりで、ニュース以外はスポーツ、それも駅伝だけを見ている。息も絶え絶えで倒れ込みながらたすきを渡す若者と、素人でも言えるようなしゃべりしかできない口先だけの人間たちとの果てしない不愉快な落差。テレビに登場して欲しくない無能タレントの上位に占めるだろう人間ばかりが正月もとみに露出が激しいので、家にいても結局は薬局に下りてきて、仕事か勉強か分からないことにほとんどの時間を使っている。読み残している書類が30cm以上積み重なっているが、どうやらこの3日間で一桁には出来そうにない。 箱根に向かってひた走る選手の高校時代の出身校を見ると、さすがに有名高校の出が多い。駅伝中継が昔とても好きだった頃があって、その頃覚えていた高校の名前が頻繁に出てくる。高校時代のエリートが、首都圏の大学に進学して活躍していることが良く分かる。多くは地方の高校の出身者で、山あり谷ありを毎日通学したおかげで強くなったのかと古典的な素人の発想をする。ケニア選手の話を聞くと、今でもその古典は日本でも生きているのかなと思ったりもする。 都市が田舎の育てたものを吸収して冨み、ますます肥大化していく構造は昔も今も変わらない。スポーツ、芸術、産業、教育、上げればきりがない。ほとんどの分野を覆い尽くしている。田舎の寂れようと反比例している。ただ、いくら政治や金を駆使しても、奪い取れないものがある。いや、寧ろあがけばあがくほどあり地獄に落ちていくものがある。空気と人の情だ。空気や水を初めとする環境は、金で全てを引っ張ってくるわけにはいかない。いずれ多くの大都市で、海面の上昇で莫大な財産を失うだろう。田舎なら対象家屋を山の方に移すだけでいいが、大都市はそうはいかない。技術力で海面より低いところで住めるようにでもするのだろうか。  もう一つの人情による破壊も、もう確実に進行している。ニュースを見れば確信を持って言えるし、又日常運悪く遭遇することもある。科学力や経済力で解決できるものではないから、日本人にとっては寧ろこちらの方が致命的になるかもしれない。電波という特殊な職権を与えられている人間たちが、あの程度の善意や創造力しかないとしたら、有害を否定する詭弁さえも思いつかないだろう。  まだ数センチも低くなっていない宿題の山を見上げながら、正月早々僕が買いたいのは福袋ではなく堪忍袋の方だった。