財産

 今日、意外なところで父の話を聞いた。 まだ漢方薬を覚えたての頃、B型肝炎で不調な青年を何年もお世話したことがある。今日ある方を見舞いに行ったとき、ちょうどその人の母親が来ていて、その節はお世話になりましたとお礼を言われた。もう完全に頭から抜けていたので全然その女性も息子さんのことも分からなかったのだが、しばらくすると徐々に片鱗程度は思い出された。あれから抗体も出来て症状は落ち着いて元気に暮らしているらしい。もう20年近く前のことだ。  その女性も80歳を越えたと言ったから、恐らく当時の面影は余りないのだろう。こちらも分からなかったが、向こうも分からなかったからお互い歳月だけはしっかりと顔に刻んでいる。その方が意外なことを言った。私はお父さんを昔から知っていたと言うのだ。最初、お父さんが僕の父のことか、祖父のことか分からなかったが、会ったのが林薬品の工場と言うから、父のことだと分かった。父は戦争で工場が焼けるまで製薬会社の役付きで働いてらしく、僕もその事は何度も聞かされていた。課長の上とその女性は言っていたから、何に当たるのだろう。まあその辺りはいいとして、その女性が戦争中学徒動員でかり出され、工場で薬を作る作業をやらされていたらしい。父とは朝礼で訓辞を聞くくらいで話すことなんか出来なかったと言うが、その女性のお父さんが、胃を悪くして途方に暮れていてその事を係長に話したらしい。戦争中だから薬など手に入らなかったのだ。薬は優先的に軍隊に納められたらしいから。係長が気の毒になって上司である父に相談したら、父は何とかしてあげましょうと言って数日後薬を譲ってくれたらしい。その後も継続してもらい、結局終戦まで薬を飲むことが出来、戦後はずっと元気でいたと言っていた。女性のお父さんはその親切に感動して、農家だったから米をお礼に時々届けたと言っていた。当時の米は何にも優って貴重だったらしい。そのお礼の米を運ぶのが女学生だったその女性の役目になったのだ。  父は基本的には善人だったから、その話を聞いてありうるだろうなと思った。父にとっては特別なことではなく、頼まれれば断る方を寧ろ苦痛と考えるタイプだから、自然にとった行動だと思う。どうしても思い出に残るのは晩年の姿だから、軍隊に納めるべきものを女学生の父親に融通するなんて規則破りの行動が頭の中で絵になりにくいが、強いものを必ずしも良しとしなかったところは僕に遺伝しているのだろうか。父が築いた薬局を喜んで継いだわけではないが、青二才を頼りなく思いながら通い続けてくれた地元の人達は、父の残してくれた一番の財産なのだろう。