携帯電話

 携帯電話を持ったことがないから、その便利さも分からないし、持ってないことの不便さも分からない。回りで持っていない人を捜す方が難しい中にあって、未だ欲しいとも思わない。便利を競って目の当たりにさせてもらっても僕の生活のどの部分で必要なのだろうと一歩引いて考えれば、万能を目指す小さな器具も単に煩わしさだけが際だってくる。ただ、以下のような話を聞くと、その機械が開発され普及されたことを素直に喜ぶことが出来る。  毎日、医療用の薬の注文を取りに来てくれるセールスが数人いる。その中のある一人のお姉さんは、若くして脳梗塞を患い数年間寝たきり状態に近いらしい。そのお姉さんとの意志疎通が携帯電話で出来るらしいから、彼は大変携帯のことをありがたがっていた。そんな使い道があるのかと驚いたし、姉弟がいつも繋がっておれる状態を他人ながら喜ぶ事が出来た。どれだけ闘病?が苦しくて、じれったくて、孤独なものかは想像がつくから、いつでも誰かと繋がることが出来る状態というのは、以前なら考えられないくらい有り難いのではないか。えてして僕と同じような使わない派から否定的な発言も出てくるが、この一組の姉弟を結びつけていると言う事実だけで、誰にも文句一つ言わせない価値がある。 たわいもないおしゃべりの中で一つ一つの発言に責任を持つ必要はないが、時としてかなり配慮しなければならない状況に遭遇する。口を重くして沈黙していれば舌禍は防ぐことが出来るが、それでは社会的動物としては息苦しい。頭の中をフル回転させて言葉を発すればいいのだろうが、言葉を追い抜いて意思表示する癖のある僕にはやはりそれも負担だ。良い行いを見るようにし、良い声を聞くようにすれば、程度の低い誹謗中傷を我が口から発することは避けられる。自分が正しいなどと青年期のような潔癖さがなくなったおかげで、言葉の刃先を他人に向けることは少なくなったが、無知から来る安易な評論がまだまだ出番を探っている。  携帯で繋がる先に、あの頃の僕はいない。