胃痛

 痛そうに胃の辺りを押さえている。何も言わなくてもそれで薬を出せる。もっともそんな神業みたいなことはするべきではないので、いつものように質問する。見たことがない人で僕の質問に面食らっていたが、そのうち真剣に答え始めた。潰瘍の経験があるのではないかと尋ねると、昔やったことがあると言っていた。この症状を治すのはそんなに難しくはない。水をコップにくんできてその場で薬を飲んでもらった。一息ついたのか、釣りをしていて一杯飲んでいたら急に胃が痛くなったと教えてくれた。一杯飲んでいた割には青白い顔をしているから強いのだろう。それに酒の匂いもしなかった。これだけ飲酒運転に対して厳しくなっているのにいい度胸をしている。事故をすれば保険は下りないだろうからすべてを失ってしまうのに。そんなにお酒って魅力的なのだろうかと、好きでもない人間からしたらまか不思議だ。  一言多い僕は「釣れないから胃が痛いんじゃないの?」と会計の時に言った。するとその男性は「見せて上げようかどんなのが釣れるか」と僕を駐車場の自分の車の所まで誘導した。ハッチを開けると大きなクーラーボックスが積まれていた。男性が蓋を開けるとなんと立派なタイが3匹収まっていた。まだ赤味が新鮮で今し方釣れたもののように見えた。3匹とも30cm前後あった。海辺で育ち、子供の頃毎日釣りをしていた僕でさえその立派さには驚いた。最近はなかなか魚が釣れないのが常識だから、こんな立派なのを釣り上げているのは余り見かけない。まるで都会人のように僕が驚くものだから、気をよくした男性は「釣る人間によってはこんなのがまだまだ釣れる」と自慢げだった。牛窓の海もまだまだまんざらでもないと内心僕は嬉しくて、そちらの方をどちらかというと喜んでいたのだが、当の本人は「並の釣り方をしていたらこんなのは釣れん」と自慢話がヒートアップしそうだった。「ご主人が一人でいい目をしているから、他の釣り人の怨念で胃が痛いのではないの?」と冗談めいて言うと嬉しそうな顔をして運転席に乗り込んだ。さっきまでの胃痛に耐えていたしかめっ面は何処に行ったのだ。まさか薬がそんなに早く効くはずがないから、心地よい会話が痛みを忘れさせたのだろう。 定年後を悠々自適に自然の中で暮らす人が多い。海辺には小型の漁船が所狭しと繋がれている。釣りを楽しむ素人のものだ。多くは複数の人が連れ合って船で出ていくみたいだ。そんな場面にしばしば出くわす。もっとも海の上だから危険とは常に隣り合わせで、何かあったときのために一人では心細いだろう。船の上で何を話すのか知らないが長い時間を一緒に過ごし、まるで少年時代のように友情を温めるのだろうか。不快な人間関係に晒される陸(おが)よりはるかに雑菌が少ない海の上で、残された日々が柔らかい波に包まれる。