意外

 予想も出来ない意外な言葉を聞いた。人の心の中はなかなか見えないものだ。何十年もその逆のことばかり考えてお世話していたのだが。そしてその甲斐あって、結局は一度も病気と言えるようなものを今のところしてもらってはいないのだが。  家が近所と言うこともあって、僕が牛窓に帰って後、父の薬局から独立してからのお付き合いになる。独立と言っても支店で独自のやりかたを学んでいったと言った方が正確だ。帰ってすぐは何の知識もなかった。薬剤師を証明する紙切れが一枚あっただけだ。大学に滅多行かずにもらえた紙切れだから、もらったときから黄ばんでいて気恥ずかしかった。それはさておき、薬局に立つようになってからは、さすがにかなり勉強したと思う。理論は苦手だから、延々と人体実験をした。色々な勉強会に出席し、帰ってから来局者に覚え立ての薬を服用してもらい、どれが正しくてどれがはったりかを自分で判断していった。そして自ずと人間の身体的特徴についても少しずつ分かるようになった。  予想外の言葉をだした女性は、僕の作り上げた経験則では、びやびやと不調は一杯抱えるが、大病をせずにひたすら長く生きると言う区分の代表格だった。色白でスリムで冷え性の典型なのだ。若いときは女優になったらと思うほど美人だった。この種の人は、大きな病気をするほどの体力もない。だから永遠に生きる。僕はそんな人を見つけると200才まで生きるよと言うことにしている。おおむね嬉しいような困ったような複雑な顔をするが、基本的には長生きはみんなの希望だろうから、その事で叱られたことはない。  何かの拍子に肩こりの話になった。女性に「肩は凝らないの?」と尋ねると、まさに今日のテーマの意外な言葉が出てきたのだ。「余程強く生まれているんでしょうね」これには驚いた。全くの真顔なのだ。恐らく本人は、私は強いと本気で思っているのだろう。冗談なんかを言う人ではないから。漢方的に判断すれば「虚症」といって、エネルギーの生産効率のすこぶる悪いタイプを指す、教科書に載せてもいいほどの人なのだが、自覚は全く違う。正反対を自認しているのだ。正しいとか間違っているとかではなく、これにつきると思った。自分で元気と自覚されればそれでいいのだ。医者が何を言おうが、漢方でどれに分類されようが、壮年期に達して自分で元気と思えるほど幸せなことはない。客観的な判断にいたずらに支配されるより、我が道を心おきなく歩めればそれにこしたことはない。  墓穴を掘るような主観は困るが、罪のない自信は時としてほほえましい。何十年、遊んでいるところをついぞ見かけなかったが、何倍にも増えた家族を与えられて、それに優る 自信はないだろう。