吐息

 なるほど、あの時間にわざわざ小一時間かけて、あんなに立派なトロを僕のために買ってくるはずがないと思っていた。僕の食卓に上ったのはいつもの精進料理で、立派なトロの固まりはわざわざクリの鼻先で匂わせてから、火を通し始めた。悔しいから値段を見てみたら5割引の198円だったから気を収めた。 獣医がもうそんなに長くないから何でも好きなものを食べさせてと助言してくれてから身体によいもの悪いもの何でも与えることになった。犬も人間の濃い味のものは好きみたいで、腎臓に悪いからと控えていたものも与え始めた。五感で残っているものは嗅覚だけだから一応は匂いを確かめるが、嘗てほどがつつくこともせず、それがかえって哀れだ。 僕は冷たいからもう諦めているが、娘や妻は、クリの母親や祖母役だったから諦めることはしない。懸命に漢方薬を飲ませたり、栄養剤をやったり、ご馳走を作っている。気がついてからあっという間に老いてしまったが、世間では超高齢犬らしい。筋肉が一気に落ち4本脚でも体を支えるのに苦労している。失禁があるためにおしめをしているのだが、おとなしくおしめをさせる姿がこれも又不憫だ。まるで自分の体調を理解し受け入れているようにも思える。よく意志の疎通が出来る利口な犬だったから、何もかも分かって悟っているように見えて哀れだ。いつか近いうちに体温を失い「物」になってしまうのだろうが、温かい体温があり、意志があるってことは、ほとんど奇跡に近いものに思える。こうしたことに直面すると人は、その神秘さに思わず神を創造主としていただくのだろう。想像をはるかに越えた神秘を解くのに科学は無力で、神秘をもってしなければ説明が付かないほど命があるってことは素晴らしい。 何時の時代から、何万年かかって人間に従順であるようにと遺伝子にインプットされたのか知らないが、その定めに哀しみも覚える。又その定めにどのくらい応えれたのかと心苦しさも覚えてしまう。安らかな吐息にほっとする今日この頃だ。