作為

 「もう大和さんのギターが聴けなくなるな」嘘でもいいからそう言ってもらえれば有り難い。でもとても嘘を言うような人ではないから、本心なのだろうか。ギターなどというものを持てる世代ではなかっただろうその人に評価されたのは嬉しかった。お別れの日まで数年、狭い空間に週に一度一緒にいたのだが会話をした記憶はない。でも下手なギターの伴奏でも喜んでもらえる空間だから、僕の方が耳を汚してとお詫びを言った方が良かったのかもしれない。 43年玉野市に住んでいた夫婦が、今日を最後に奥さんの生家のある長崎県のある島に帰って?行くことになった。二人ともミサの途中からしきりに目を拭っていた。その回りに腰掛けている親しかった人達も、鼻をずるずる言わしていたから泣いていたのだろう。ギターの話の続きで、長崎に帰ることは結婚したときからの約束だったことを教えてもらった。ご主人の出身は玉野市だから、ご主人が今度は故郷を離れることになるらしい。ご主人のお母様を看取ったので、それを機会に約束を果たすことにしたと言っていた。奥さんの方にどの様な理由があるのか分からないが、結婚したときの約束を今果たそうとするご主人の誠実さに驚いた。漢方をやっている人間からすると夫婦は相克の関係にあり、どちらかというと敵対するものと考えた方が世の実情に合っている。夫婦の約束なんて、約束のうちに入らないのではと思うが、この夫婦は違う。寡黙で目立たず、それでも必ず風景の中に収まっていた奥さんは、いつもトイレの掃除をしていた。僕はずっとそれを見ていて、僕の「勝てない人」の中にちゃんとファイルしておいた。まるで小学生の作文程度だが、お別れの寄せ書きに「いつもトイレを掃除してくれていましたね、ありがとう」と書いた。気が利いた言葉も考えられたのではないかと思うが、それ以上の言葉は敢えて紡ごうとは思わなかった。すべての作為を排除する二人の生き様が風景の中に溶け込んでいたから。