神業

 初めはくすくすと遠慮気味に笑っていたのだが、そのうちこらえられなくなったのか吹き出すように笑い始め、それも次には止まらない笑いになった。こちらの方では深刻な相談を始めているのに、会計がすんだその婦人はチャップリンのモダンタイムスを見ながら文字通りソファーに腰掛け笑い転げていた。バスが30分後にしか来ないから待たせてというので、ビデオを見てもらっていたのだが、受けるは受けるはで、店頭にビデオを設置して、又チャップリンを流し続けていて良かったなと僕はほくそ笑んでいた。目の前の深刻なトラブルの相談者も振り返って、笑い転げている婦人を見て笑っていた。笑いの伝染なら歓迎だ。憂鬱な空間にほっとした空気が流れる。 穏やかな話し方、優しい顔つきだが、芯は強い。障害を持っているお子さんを育てている。旦那はいつからかいなくなった。経緯は敢えて聞かない。女手一つで育てていることだけで婦人を評価する他の物差しはいらない。せめて僕の目の前にいる間だけでも笑って欲しい。笑って、自律神経の興奮を鎮めて欲しい。緊張から解き放たれて欲しい。戦闘状態を解除して欲しい。  神業を成し遂げるピアニストの本当の目標は作曲らしい。運が良ければ僕らは彼と同時代を生き、未知なる名曲と遭遇する日が来るかもしれない。何百年も聴き継がれる音楽に遭遇出来るかもしれない。ただ一つ望みが叶うなら、お母さんの顔を見てみたいという彼の言葉に、どれだけの人が心を洗われただろう。不平や不満の汚泥の中であえいでいる僕らにも、神業から放たれる驚きの旋律は届く。  婦人のお子さんに神業は宿らなかったのかもしれないが、女手一つでたくましく育てている婦人は神業を備えている。決して脚光を浴びることはなかったが、陰ながら賞賛と尊敬の念を惜しまなかった人達は多いのではないか。幸せが相対になったとき不幸が始まる。決して相対で語ることをしなかった婦人はチャップリンの何に共感を覚えたのだろう。豊でない人達の豊かさだろうか。ボロをまとった人達の輝きだろうか。哀しみを昇華した笑いだろうか。 笑いにおいてチャップリンを超える神業を知らない。