平等

 僕が調剤室で漢方薬を作っている間、薬を取りに来た女性と妻が話していた。妻は、その女性が何か本来の目的と違う症状を言ったのである薬を薦めていた。別に売ろうという気はなく紹介しただけだったのだろうが、突然その女性がトーンを上げて、「その金額でも買えないんですよ」と言った。その金額は1800円だったのだが、ずっと飲んでいる漢方薬に足すには大きすぎて、無理だというのだ。漢方薬を切らすと、蕁麻疹も腰痛もてきめんに出てきて、この2種類は当分切らせないが、健康投資のためにはお金は工面できないと言う。なんでも、トラック運転手のご主人の収入が半分になったと言うのだ。なるほどそれでは贅沢は出来ないだろう。贅沢どころか今ある苦痛を取り除くのなら仕方ないが、将来陥るかどうか分からない疾患の予防まではお金が回らないと言うのは当然だ。妻は気の毒に思ったのか、1回分の見本を飲んでもらっていたが、そんなもの何の役にも立たない。勧めたことの心理的な免罪符だったのかも知れない。  地方にいたら経済的に豊かな人は余りいないから、政治力で富や権力を手にする人には余り接する機会はない。その代わり、逆の立場の人にはいとも簡単に出会える。何か政治が動くたびに失う、あるいは落ちていく人達は枚挙にいとまがない。階段は降りるためだけに用意されているのではないかと思えるくらいだ。  平等などと口に出すと時代錯誤のように思われるかも知れないが、僕はやはり拘ってしまう。まさかその言葉の先に「不」をつけた方がいいとは誰もが思わないだろうが、豊かな人がより豊になるために、今の機構は全て動員されているように見えて仕方がない。せめて健康だけでも、せめて教育だけでも、せめて住む家だけでも、せめて着る服だけでも・・・せめて明日が今日よりは少しでも生きやすいと思える心だけでも平等であってはいけないのだろうか。