郷愁

 僕が牛窓に帰ってきた頃は、この男性は今の僕より若かったのだろう。当時はずいぶんと年上に見えていたのだけれども。何を気に入ってくれたのか、しばしば薬局に来ては煙草を吸いコーヒーをすすりながら、人生や政治について語った。もっともそんなに程度が高い内容ではなく、田舎のおじさんの蘊蓄だった。そんなのんびりとした薬局の時代は10年くらい前に終わってしまったから、彼も次第に足が遠ざかり、時々薬を取りに来るくらいになった。  今朝一番に薬を取りに来て、僕が暇そうだったから少しカウンター越しに話を始めた。しばらくするとある老人が入ってきたので気を利かせて出ていった。老人は簡単な買い物をしただけだったのですぐ帰ろうとしたのだが、カウンターの上に車のキーを置いたままだったので、それに気づいた僕が呼び止めてキーを渡した。老人はありがとうと言ってキーをポケットに入れて薬局を出ようとした。薬局の入り口あたりで、さっき帰ったはずの男性とすれ違った。男性は慌てた様子で「キーを忘れていなかった?」と尋ねた。とっさにさっきのキーは老人のではなく、男性のだったのだと気がついたから、「あ、あのご主人が持っていった」と大きな声をあげると、車に乗り込もうとした老人を「おじさん、おじさん」と呼び止めた。「おじさん、ワシのキーじゃが」とたしなめるのだが、果たしてそんな権利があるのか。自分が忘れて出ていったのが一番の原因なのに。老人は人のキーを言われるままに持っていった。男性は自分が忘れたのに老人をたしなめた。僕は勝手にキーが老人のものだと決めつけた。3人3様のドジで、最初は照れ笑い、そのうち顔を見合わせ大笑いになった。ひとしきり笑った後、「今日は朝から面白かった、こんなに笑うことなんて滅多にないものね」と言うと二人も「ほんと、ほんと」と同調した。  こんな、何でもないことで大笑いできるような薬局にいずれ又帰っていきたい。疲れ気味の僕にはどこか郷愁を帯びた笑いだった。