放送塔

 来訪者の中には突然に始まる放送にびっくりする人がいる。高台にもうけられたいくつかの放送塔から流れる声はかなり大きくて、不意をつかれるとびっくりするのだろう。勿論災害時などにも使われるから、聞こえにくい音量では役に立たない。毎日子供会が午後の5時半に帰宅を促す放送をするが、可愛い子供の声でも驚く人が多い。と言うことは、子供はその時間以降は原則として一人では外にいないと言うことだ。都会では考えられないかも知れないが、そうして子供の安全も50年近く守られている。  こんなシステムはなぜかしら不覚にも牛窓だけのことかと思っていた。実際に今まで一度も余所で聞いたことがないから。色々なところを訪ねても別に目を凝らして高台を眺めるわけではないので、放送塔らしきものも見たことがない。ところが何度かテレビ番組の中で、あの一種独特の音を聞いた。そこで初めて色々なところで、勿論田舎ばっかりだが、活用されていることを知った。  リアルタイムで重要な内容を伝えるにはとても有効なものだと思う。長雨である家が半分土砂の下に埋まったときも、放送塔からの叫び声で、深夜人が集まった。放送塔の声さえも消されそうな大雨の夜だったが、叫び声でただならぬことがあったことを住民は悟った。海水が溢れ、避難を余儀された台風の時もやはり有効に働いた。  僻地の代名詞みたいな放送塔が華々しい活躍をしてくれるのはよいことではない。そっと、住民の安全を守ってくれればいい。絶えることなく続いている習慣だから、地元の人には生活の一部になっている。そっと守ったのは安全だけではなく、ともすれば薄れがちな絆も守っているに違いない。  「もう5時半がきますから、外で遊んでいる子供は家に帰りましょう」これは50年近く前、放送塔が初めて設置されたとき、最初の放送をした僕が言った言葉なのだ。一言も違えることなく未だ続いている。あの頃の少年は何処へ行った。僕の中で行方不明になっている。放送塔で叫んで捜さなければ。「少年の純粋な心が土砂で埋まっています」と。