ちゃらんぽらん

 日曜日に、だだ広い教会の駐車場で、止まっている車と押すような状態で接触した。家に帰ってから、車関係の職業の人に電話して、どのくらい費用がかかるか尋ねた。すると保険の免責を少し出るくらいかなとの感触を得た。保険屋さんとも相談したが、警察に行ったりなかなか手間が大変そうだったので、自費で弁償することにした。僕もそうだが、相手の方がとても忙しそうにしていて、とてもではないが、こんなつまらないことで時間をとらせることが忍びなかったから。  近くのとても美味しい洋菓子と共にお詫びの手紙を送った。翌日それを受け取ってくれたその女性が電話をくれた。お菓子のことについてまずお礼を言われた。僕がお礼を言われる筋がないから恐縮してしまう。時間が出来たときに修理してもらってと頼むと、車に拘っていないことと、そんな時間がもったいないという理由で、修理を断られた。全然気にならないからもうこれ以上気を遣わないでとのことだった。少しの押し問答はあったが、結局彼女の寛容さに甘えることにした。  その後、結構長い時間話す事が出来た。教会での献身的な行動に今までは傍観者的に感心していただけだが、人の心の一端を覗くことが出来ると、その理由が良く分かる。僕みたいなエセ信者とはまるで違う。羨ましいと思ったのは、キリスト教のもっとも根元的な教理を信じていることだ。それは復活の思想なのだが、僕はさすがにキリストが復活したところまではなんとかついていけるが、僕ら凡人が復活するとは到底信じることが出来ないのだ。ここの所を越えない限り本当のクリスチャンとは言えないのかもしれない。僕は全く越えられていないが、彼女は完全に信じている。だから死は全く怖いものではないらしい。いつ死んでもいいと言っていた。既に亡くなっている叔父や叔母と会えると楽しみにしている。死を語るのに屈託もなく、むしろ神様の元に行くというようなイメージだった。そんな気持ちになれたらどんなに楽だろうなと思うが、到底無理だ。これから時間をかけるとその心境に達するのかと思うが、可能性はいたって低く思われる。  全く好ましくない理由で、話す機会を得たが、やはり人間は外見からではその人の人格の何分の一も理解できない。「適当」と言う言葉が大変嫌いだと言っていた。とことんやることが好きらしい。好きというか気が済まないのだろう。きっと、頑張り続ける人なのだ。僕がお詫びの手紙を添えたことで「ちゃらんぽらんな人と思っていたけど違うんですね」と言ってくれた。残念ながらそれは違うのだ。僕はちゃらんぽらんで適当が好きなのだ。ただ迷惑をかけたときくらいは、人並みに神妙になれるだけなのだ。  新米クリスチャンだが、生え抜き女性の粋に触れられて格好いいなと、一本とられた。