花屋

 薬局という無機質な空間にいても、その人、あるいはその子がいるだけで幸福に浸れることがある。  素直で飾らず、田舎の中学に通うその子はお母さんと遠くから来てくれる。親と一緒にやってきて、親と普通の会話が出来る。まずそれが第一だ。親と一緒に入ってきても、まるで他人のよう、あるいは敵のような関係もままある。その雰囲気はこちらにも伝わって、仕事をする気が失せてしまう。母親とやってくるのはまずまず。父親とやってきて普通の会話が出来たりしたら、もうそれは感激もの。どれだけ旨く育て、あるいは育っているのだろうと尋ねてみたくなる。  うらやましいくらい旨く育っているそのお子さんについてお母さんの心配は、高校生になって色んな人と接して、傷つかないかと言うことだ。もっと幼いときからばい菌に触れて抵抗力を付けておいた方が良かったのだろうかと、しばしば引用される懸念を口にした。僕はそれには反対だ。お母さんも口ではそう言うものの、意図的にそんなことが出来るわけがない。幼くても、人格が引力になって善良な仲間が出来ることは多いだろう。敢えてその中に異質を放り込むこともないし、そもそも異質の側も耐えられないだろう。田舎でのんびりと純朴に育ったことは大いなる宝物だ。続く限りそれを大切にすればいい。世間の荒波に耐えられるのは必ずしも早咲きの雑草ばかりではない。穏やかで競うことが苦手で、戦うことがいやな子がその個性を押し隠し混沌とした現代の秩序に迎合する必要はない。むしろ無味乾燥な時代のオアシスにあの子達はなれるのではないか。砂漠と化した人の心に潤いをもたらせるのはあの子達ではないか。近づくべきはあの子達にではないか。旨く生きていくのが目的ではない。より良く生きようとしている人がより良き生きれるように世の中の方が変わらなければならない。範となるべき人間が欲望の化身となり下がる時代に可憐な花を咲かせる鉢植えが、純朴という名の花屋の店頭に沢山並ぶことを願う。