ゴーヤとプチトマトを差し入れてくれた奥さんに、お茶を出した。その奥さんが器をしげしげと眺め、「これは備前焼?高そうね」と言った。器は、濃い茶色で焼き加減か少し色が明るい箇所もある。こんな焼き方にも名前があるが僕は覚えていない。備前焼の重厚さとは違ってかなり薄く焼かれている。落としたら割れそうだ。  残念ながらその器は高額なものではない。ほとんどただみたいなものなのだ。岡山市から漢方薬を取りに来るある男性がお土産に買ってきてくれたプリンの容器なのだ。それこそ、その焼き物を器にしたプリンは高級そうで美味しかった。わずか数分で食べ終われるプリンのために使い捨てられるのはあまりにも忍びなかったので、以来湯飲みじゃわんとして使っている。僕には高級プリンと言っても、プリンが高いのか器が高いのか分からないが、あまりにも贅沢そうな器が捨てれなかった。  その奥さんは良く薬局を利用してくれる気さくな方だから、その眼力の無さに照れることもなく「こちらにあるから高級そうに思えるではないの」と言った。ところが本当に我が家のことを知っていてくれている人は、高級そうなものはあっても、高級なものはないことを知ってくれている。幸運にもそんなものに全く興味がない質なので、手に入れようとも思わない。だから物に関して無理をしなくてすむ。どこにでもあるもので十分満足できるのだから。むしろ何もない生活、物に囲まれない生活こそ理想としているのだから少しの贅沢にも後悔する。  恐らく、あのプリンはプラスチック容器に入れられていたら、お土産には使われなかっただろう。容器で付加価値をつけて値段を高くしているのは見え見えだ。それは悪いことではなく、買い手は何となく気がついているが、目の前にするとつい手が伸びてしまうのだろう。お店の人に軍配が上がる。  外見で判断してはいけないが、ついつい見かけの判断は容易だから多用してしまう。物も動物も人も同じだ。外見で判断したくないなら、外見で判断されないようにしている。演歌の世界ではないが「ボロは着てても心は錦」がいい。飾らないのが一番いい。開放感に浸れる。赤裸々な自分でいいのだから。演じる必要のない気楽さは何にも代えられない。僕はそうしていつも自由を手に入れている。誰も振り向かないとしたら何でも出来る。何も躊躇わない。自由は必ずしも与えられる物ではなく、自分で作らなければならないことも多い。それにはまず自分自身の欲望から自由で解き放たれていなければならない。希望を何重にも邪悪で包めば欲望になる。心の中も必要最低限の想いに留めておくべきかもしれない。主のいなくなった器のように。