後悔

 19世紀の話。テームズ川の畔で乞食がバイオリンを弾いてお金を恵んでもらおうとしていた。そこを通りかかった男が、「今恵んで上げるお金をもっていないが、私もバイオリンを弾くことが出来るからバイオリンを貸してくれないか?」と乞食に話しかけた。乞食がバイオリンを渡すと、男はバイオリンを弾き始めた。それがとても上手ですぐに人だかりが出来た。その男を見た人が、「彼はパガニーニだ」と叫んだ。19世紀最高のバイオリニストと呼ばれている人物で、丁度イギリスに演奏旅行に来ていていたらしい。乞食の前に置いてあった帽子はすぐにお金で一杯になったらしい。  さしずめ僕らは逆で、少しのお金を恵むくらいのことしかできないが、才能ある人は多くの施しが出来る。施しの量を競うことは何の意味もないが、示唆に富んだ話だと思いながら聞いていた。ほんの少しの発想の転換で、ひょっとしたら僕ら凡人でももう少しは人のお役に立てるのではないか、最初から無能を決めつけているから、自ら善行の可能性を狭めているのではないか、誰もが特有の個性や能力を持っていて、ありのままの善意を示すだけで、勇気を持って行動に移すだけでいいのではないかと思った。  体験的に、自分が喜ぶより、人に喜んでもらう方が遙かに気持ちいい。それが又自分の喜びとして返ってくる。社会的動物として生きる限り、僕らは知らないうちに多くの人を意図しなくても傷つけている。もし免罪符があるとしたら、通り過ぎないことだと思う。そこで立ち止まれば、ほんの少しのことでも出来るから。立ち去っては後悔だけが残る。 山と積まれた後悔を見て後悔することだけはもう止めようと、逸話を聞きながら思った。