物理屋

 自分を学者と呼ばずに「物理屋」と言ったり、受賞を嬉しくないと言ったり、天真爛漫というか、謙虚というか。本当に勉強が好きで、その道を邁進した人達は、僕ら凡人とはかなりかけ離れた価値観を持っているらしい。最近は、マスコミを利用して虚像を垂れ流し、権力を手に入れようとする奴らが目について不愉快なことが多いが、そうしたどろどろとした汚泥を一気に流し去ってくれそうなすがすがしくて不器用な会見だった。世俗的な欲望が透けて見えないのは、そのこと自体が珍しいことだし、現にそれを見せつけられると、文句なしで圧倒されてしまう。頭の構造が違うのはあきらめるが、その生き様まで圧倒されたら、物理のない国に逃げなければならない。  それにしてもどの放送局のアナウンサーやキャスター(こんな言葉はもったいない)も、くだらない質問をする。軽率な合いの手も不愉快きわまりなかった。相手が話を完結するまで待てず、低次元の芸能ネタと何ら変わりない。こんなチャンスは滅多にないのだからあの人達が、あの人達の間合いで喋る姿を見たかった。物理学の神秘と、たぐいまれなる才能を開花した神秘を、次世代の子供達に伝えて欲しかった。神秘が天空から降りてきたとき初めて、子供達の魂に確実に宿る輝きがある。一生を導いてくれる星が輝く。昨日、今日は、多くの子供や青年の上に星が輝く日だったのに残念だ。  寡黙が希望を与え、饒舌が不正を隠すなら、言葉に信頼はない。とつとつと喋る理性に、真実が宿る。もてはやされる雄弁に錆びた墓標を。