伊勢神楽

 人の顔は、日々更新している。昨日会った人は昨日の顔が、5年前に会った人は5年前の顔が、その人そのものだ。それより以前の顔は、新たに認識した時点で消え、明日の顔を想像することもない。  牛窓の夏の風物詩の伊勢神楽が今日やってきた。幼いときは意味も分からず、その舞いを何かの見せ物のように見ていた。伊勢神社の地方出張のように理解できたのは、お供えを自分で用意しだしてのことだ。幼いときからの楽しみは、僕の心の中では全く色あせず、麦わら帽子をかぶったランニング姿の少年がこの夏も神楽が来るのを待っていた。  神楽を舞う人、笛や鳴り物の人など7,8人でやってくる。その中に2人幼いときからずっと見ていた人がいる。はっきりといつからとは言えないが、それこそずっと見ている人がいる。不思議なことに、ずっと同じ顔をしているような気がするのだ。何十年変わらない顔のような気がする。そんなはずはないのだが、毎年僕の記憶の中に更新しているから、微妙な変化を感知できずに、結局は同じ顔としか認識できていないのだ。  薬局の中から、駐車場で舞うのを見ていたら、時々その中の1人が、僕に見えるように、身体を横に傾け、視界の中に入り、笛を吹きながら微笑みを送ってくれる。向こうも当然覚えてくれているのだろう。特にこの何年かは、親しみを込めて挨拶をしてくれる。何とも言えぬ微笑みの余韻に浸っていると、偶然妻が、「あの人とてもいい顔をしてのぞき込んでいたね。お父さんに、いつまでも元気でいましょうと言っているようだった」と言った。僕は妻の推測が当たっているような気がした。炎天下、家々を回るので、話しかけることは出来ないが、何故か連帯の微笑みのような気がしたのだ。全く共通する所がない人間同士が、年に数分神楽によって会うだけでも、回をコツコツと重ねると何かが生まれたのだろうか。お互いの健康を喜び来年の再会を誓い合う無言の連帯の微笑みは、伊勢の神様がくれたものだろうか。