溜飲

 今日のミサの中で神父様の言葉が、長年の溜飲を下げてくれたような気がした。  インドのガンジーが昔「キリストは尊敬するが、クリスチャンは嫌いだ」と言ったそうだ。理由は、クリスチャンがキリストを崇めながら、キリストに近づく努力をしないからだそうだ。キリストのように生きるように教えられながら、それを実行しようともしないからだそうだ。まさかキリストのように罪を一身に引き受けて死に葬られ、万人を救えとは言わないだろうが、少なくとも、虐げられた人達に愛を実行せよと言うことくらい、ガンジーはクリスチャンに期待したのだろう。ガンジーが接したクリスチャンの中に、尊敬できる人間がいなかったから、先のような言葉が出たのだろう。  実はこの僕も同じようなことを考えていた。長い間疑問に思っていたことが、今日の神父様の言葉で解けた。僕は信者ではないが、30年近く妻について教会に行っていた。正直、退屈なミサが早く終わってくれ、ラーメンでも食べて帰りたいなどといつも考えていた。目的はラーメンで、ミサは単なる途中の停留所だった。僕は我流でキリストの前に膝まづき、子供達の無事な成長を祈った。その瞬間だけは自分なりに懸命に祈りキリストと通じることが出来ていたように思う。ところが教会でも、家庭でも、心から尊敬できるクリスチャンには残念ながら会えなかった。クリスチャンであることだけで満足しているような人ばかりを目撃した。だから洗礼を受けてクリスチャンになることなど全く考えられなかった。歴史に残るガンジーでさえ、身の回りに尊敬できるクリスチャンがいなかったのだから、僕みたいな凡人の回りにあっと驚くような人がいるわけはないが、ああ、さすがにクリスチャンだと感心させられるような人もいなかった。僕が勝手にイメージしたものと比較して、クリスチャンの人には迷惑だったかもしれないが、部外者だからこそ見えるものも多かったと思う。  一昨年のある日、ラーメンのことで頭が一杯だった僕に衝撃的な説教をした神父様が現れた。(説教は怒ることではなく、良い話をしてくださること)以来、その方の話を求めて追っかけをし、それが縁で洗礼を受けた。自他共に認める不良信者だが、ほんの些細なことでもいいから、人のために無償の行為をしたいと思えるようになった。嘗て僕がクリスチャンの方に向けていた視線を、今では僕が受ける立場にいる。あの人が信仰しているのだから・・・とは未だ残念ながら一度も言われたことがない。あいつが信仰している程度だから・・・と言われないように、他の方の足を引っ張らないようにと下げた溜飲を又元に戻そうと思っている。  恐らく教会に通う全てのクリスチャンが、一瞬でも人のために何かをしたいと思わないことはないと思う。説教を聞く度に少しは改心する。それが実行移されるかどうかが問題なのだと思う。実践を強調される若き神父様の表情がまぶしい間、僕は不良から脱出できないだろう。 (教会に通いだして、熱心な信者さんが地道に色々な活動をしていることを知った。本当に愛を実践している人達は、表には出ないことも知った。それらの方々とは信仰の面で雲泥の差があり今も、恐らく将来も足元にも及ばないだろう)