小豆

 山の上のパン屋さんで買う、小豆入りの食パンが美味しい。所々に小豆が散らばっていて、そこに舌が当たると甘みが増し、得したような気になる。所々というのがきっとみそで、それが小豆だらけでは甘過ぎてすぐに飽きてしまうだろう。何でも滅多手に入らないものが魅力なのだ。簡単に手にはいるものでは感動は難しい。  朝食の時、テーブルの上にヤクルトがあったので、ヤクルトを飲みながらそのパンを食べた。ヤクルトの甘みが強すぎて、ほとんどパンの味がしなかった。小豆の部分に当たっても、甘くも何とも感じない。ヤクルトの味しかしないのだ。これには閉口して、定石通り牛乳でパンを食べる事にした。すると、いつものパンの香りと味、そして例の「得したような甘さ」が味わえた。  僕は朝、そのパンを食べたかったのだ。ヤクルトを飲みたかったのではなく、小豆を食べたかったのでもない。ただ、ほんのりと甘みが誘う食パンが食べたかっただけなのだ。それなのに、ヤクルトを口に含んだだけで、パンはパンでなくなった。ヤクルトの香りがする何かになってしまった。勿論僕は幼い時、ヤクルトにあこがれて育った世代だから、今でもとても好きだ。だから家にあるのだろうが。ただ、ヤクルトでパンを食べたことはなかった。だから二つの好物を同時に楽しんだことになるのだが、ひとつのあまりにも強烈な個性の為に、片方を完全に殺してしまった。引き立つものと引き立てるものが倒錯してしまったのだ。本来、ヤクルトみたいな味が濃いものは、引き立つ存在で、他者を引き立てるものではない。まして、遠慮気味に香る小豆の甘みなんか、赤子の手をひねるがごとく駆逐してしまうだろう。  引き立て役の「名もない人々」なんていない。皆、ちゃんと名前を持っている。ただ、謙遜にねばり強く生きているだけなのだ。強烈な個性を生来持ってはいないかもしれないけれど、地域を懸命に支えている。一握りの強烈な個性でそれらの愚直な営みを蹂躙することは許されない。パンにはパンの味があり、それだけで十分なのだから。